コンスタンティノープル のバックアップソース(No.8)
*現実の城情報 [#information]

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「第2のローマ」「新しいローマ」として地中海世界の中心地であるとともに、キリスト教正教会の総本山であり、東西文明の十字路でもある、キリスト教世界最大の都市として繁栄した、千年以上に渡ってローマ帝国の中心となった帝都。
古代ギリシアの植民市ビザンティオンを起源とし、330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世が現在のイスタンブールの地に、自身の名を冠して「コンスタンティヌスの町」を意味する都を建設した。
以降の皇帝はコンスタンティノープルに住まない者も多かったがテオドシウス1世はコンスタンティノープルに定住し、彼の治世を最後にローマ帝国は最終的に東西に分裂し、今日「東ローマ帝国」と称される帝国の都として歴代皇帝が居住した。

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413年にはゲルマン人やフン人の侵入に備えるため、テオドシウス2世はコンスタンティヌスの市壁から防衛線を西に伸ばした、高さ13メートルの「テオドシウスの城壁」を築き、447年の地震で大部分が崩壊するとテオドシウスは再建に全力を注ぎ、これを修復するだけでなく大城壁の外側に外城壁を築いて堀を設け、巨大な三重城壁が完成した。
これによって半島は金角湾とマルマラ海沿いの海岸城壁、テオドシウスの城壁によって完全に防御され、オスマン帝国に破られるまでの実に千年以上に渡り正攻法で破られることはなく、文字通り鉄壁として外敵の前に立ちはだかった。
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コンスタンティノープルは地中海帝国を一時的に復活させたユスティニアヌス1世の治世で最初の繁栄期を迎え、世界最大級の都市へと発展した。
その後イスラームの台頭により一時衰退したものの、コンスタンティノープルは867年のバシレイオス1世に始まるマケドニア朝のもとで最大の繁栄を迎えた。
特にニケフォロス2世・ヨハネス1世・バシレイオス2世はイスラームやロシア、ブルガリアを圧倒して地中海世界に君臨し、東ローマ帝国の最盛期を現出した。
コンスタンティノープルは地中海世界の政治・経済・文化・宗教の中心地となり、当時の西ヨーロッパの都市の10倍以上となる数十万の人口を有する巨大都市として繁栄、城壁も攻城戦技術の発展に対応して改修が繰り返された。
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しかし1025年のバシレイオス2世の死後帝国は衰退し、コムネノス朝時代に海洋交易国家であるヴェネツィア共和国やジェノヴァ共和国と結んで再び繁栄したが、1204年の第4回十字軍の際に内紛によって一時的に攻略された。
東ローマ帝国は1261年に帝都を奪還したものの14世紀からはオスマン帝国の脅威にさらされ、1453年に陥落した。
コンスタンティノープルの陥落と東ローマ帝国の滅亡は西欧社会に多大な影響を与えるとともに、築城技術の変革も促した。
中世に普及した高い城壁を備える城塞では新しい攻囲戦術や軍事技術に対抗できないことが明らかとなり、[[星型要塞>四稜郭]]がさらに発展していくこととなる。

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|所在地|トルコ共和国・イスタンブール|
|現存状態|世界文化遺産・イスタンブール歴史地域|
|城郭構造|城郭都市|

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**コンスタンティノープルの陥落 [#iba7ec97]

東西文明の十字路として地中海世界の中心に君臨したコンスタンティノープルは、その歴史のなかで度々外敵の攻撃を受けたが、テオドシウスの城壁をはじめとする強力な城壁がその攻撃を阻んできた。
559年にはスラヴ人に攻撃されたが、これはユスティニアヌス麾下の将軍ベリサリウスが撃退した。
ヘラクレイオス1世の治世ではササン朝ペルシアとの抗争で疲弊し、ペルシア遠征中の626年にはアヴァール人がコンスタンティノープルを包囲したが、これは留守を預かっていた総主教セルギオスが撃退した。
しかしヘラクレイオスはササン朝を破ったものの、新たに勃興したイスラームにヤルムーク河畔の戦いで大敗し、シリア・エジプトを奪われ失意のうちに死去した。
イスラームはコンスタンティノープルにも迫り、673~678年に五年間に渡って断続的に包囲し、717~718年にも包囲するが、コンスタンティノープルは強力な城壁とギリシア火で撃退し、バルカン半島は以後数世紀に渡ってイスラームから守られた。
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1204年には宮廷の内紛から第4回十字軍の侵入を許し、この時にテオドシウスの城壁と比べると高さも強度も劣る、金角湾沿いの一重城壁が弱いことが判明した。
この地区はブラケルナイ地区と呼ばれ、のちのオスマン帝国による包囲の際にも集中的に狙われた。
オスマン帝国は1299年に小アジアで建国され、14世紀にはバルカン半島へ進出してコンスタンティノープルを度々包囲し、東ローマ帝国はオスマン帝国の属国となるまで地位が低下することとなった。
東ローマ帝国はオスマン帝国からの独立を図るが、1394~1402年にかけてオスマン帝国スルタンの「雷帝」バヤジット1世が断続的にコンスタンティノープルを包囲したが、バヤジットがティムールに大敗したため包囲が解かれた。
その後再興したオスマン帝国はムラト2世が1422年にコンスタンティノープルを攻撃したが撃退された。
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1453年4月5日にオスマン帝国スルタンの「征服者」メフメト2世はバヤジットやムラトによる包囲の失敗を踏まえ、本格的なコンスタンティノープル攻略に着手した。
メフメト2世はボスポラス海峡のヨーロッパ側に築いた[[ルメリ・ヒサル]]を攻撃拠点とし、ヴェネツィア船やジェノヴァ船を監視しコンスタンティノープルへの海上補給を封鎖した。
また「ウルバンの巨砲」などの大砲でブラケルナイ地区や隣接するメソテイキオン地区に集中的に砲撃を加えたが、土塁で防御された城壁に砲弾の威力を殺され、城壁を破ることはできなかった。
坑道を掘ることによる地下からの攻撃も試みたが、守備兵は坑道の位置を把握して対応し、坑道戦は失敗した。
さらにオスマン帝国艦隊はジェノヴァ艦隊・ヴェネツィア艦隊に敗れ、メフメトは艦隊を山越えさせるという奇策も用いたが、決定的な効果は得られなかった。
このようにメフメトは様々な手段で約二ヶ月間の攻城戦を行ったが、火砲に対抗できるよう改良された三重城壁を破ることはできず、総攻撃はいずれも撃退された。
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ところが5月29日、集中攻撃により破損していたブラケルナイ地区の城壁に設けられた柵への攻撃の最中、これに対応していたジェノヴァ人指揮官ジュスティニアーニの負傷がコンスタンティノープルにとって致命傷となった。
ジュスティニアーニの戦線離脱によって守備兵も持ち場を離れて退却し始め、これを見たオスマン帝国兵が柵に殺到した。
東ローマ皇帝コンスタンティノス11世は内城壁のケルコポルタ門の鍵を開けるように命じ、より早く守備兵が柵の守りにつけるようにしていたが、混乱の最中オスマン帝国兵がこれを見つけて逆に内城壁内に侵入した。
コンスタンティノープルの内城壁は兵員不足からほとんど防御されていなかったため、侵入したオスマン帝国兵の攻撃に対応できず、ついに東ローマ帝国千年の都として難攻不落を誇ったコンスタンティノープルは陥落した。

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