徳川家康配下の「徳川四天王」の一人で、「井伊の赤備え」を率いた猛将として知られる井伊直政の居城。 直政は小田原征伐での功によって上野国に所領を与えられ、当初は箕輪城を居城としていたが、かつての箕輪城の支城であり、三国街道と中山道が分岐する交通の要衝に位置した和田城の地に新たに城を築くこととなった。 慶長3年(1598年)に新城に入った直政は箕輪城から城下町を移し、地名を和田から高崎に改めて領内経営の中心とした。 直政は近世城郭としての改修を進めたが、関ヶ原の戦い後に佐和山城に移り、直政の時代には高崎城は完成しなかった。
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直政の後には酒井家次、松平康長、松平信吉が入って改修を続け、安藤重信が本格的な改修に着手し、この安藤氏による3代77年間に渡る大改修によって高崎城は近世城郭として整備された。 和田城があった西の丸から西曲輪群、榎曲輪にかけての部分は和田城の遺構を利用し、これらの曲輪と東側の二の丸が本丸を囲み、さらに二の丸の虎口には三の丸を設けるという、輪郭式と梯郭式が合わさった平城となった。 関東の城に多く見られるように、城の周囲はほぼ土塁で囲まれ、石垣はほとんど用いられなかった。 「御三階」「三階御櫓」と呼ばれたものが実質的な天守で、当時主流だった破風の無い層塔型天守とは異なり、千鳥破風が数多く並んでいるところが外見上の大きな特徴だった。
安藤氏の後は大河内松平氏の輝貞が城主となるが江戸幕府6代将軍徳川家宣によって左遷され、家宣の側用人・間部詮房が城主となり、家宣の死によって詮房が失脚すると8代将軍徳川吉宗によって輝貞が城主に復帰し、以後明治維新に至るまで大河内松平氏が城主を務めた。
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