楠木正成が拠った楠木七城の一つとされる。文献には応仁の乱の原因でもある河内守護畠山氏の家督争いで初めて登場する。 紀伊国・大和国・和泉国へ続く街道が通る交通の要衝に位置したことから、烏帽子形城は畠山氏両派による争奪戦の対象となり、『経覚私要鈔』で文正元年(1466年)に畠山義就方に攻め落とされたと記される「押子形城」が烏帽子形城とされる。 やがて三好氏が畿内を支配すると、これに対抗する畠山氏・根来衆による攻防戦が行われ、天正3年(1575年)に織田信長が河内を平定した後は信長方の地域支配の拠点として用いられた。 烏帽子形城はキリシタンの城としても知られ、ルイス・フロイスの1575年5月4日付の書簡に烏帽子形城のキリシタンを訪ねた記事があり、1582年2月15日付長崎発のガスパル・コエリョの報告では烏帽子形城に二人のキリシタン武将がいたと記されている。 報告されたうちの一人はキリシタン大名で知られる池田丹後守教正(シメアン)の娘と結婚したと記され、また城下に約300人のキリシタンがおり教会を建てるための木材が準備されたことも記されており、キリシタンの拠点だったことが窺える。
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天正12年(1584年)、豊臣秀吉は根来寺(根来城)など紀伊国の諸勢力に対抗するため、岸和田城主の中村一氏に命じて烏帽子形城を改修させ、兵を配置した。 翌年の紀州征伐の後には城は使われなくなり、天正15年(1587年)のバテレン追放令によって烏帽子形城下のキリシタンは追放され、教会も破壊された。『1592年11月付日本準管区内教会目録』の中に、破壊された教会として収録されている。 また中村一氏による改修記録が烏帽子形城の改修に関係する最後のものであることから、現在残る遺構はこの時のものだと考えられる。 その後江戸時代になって再び使用されたが、元和3年(1617年)に廃城となった。
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