中先代の乱(1335年)により天神城が落城したのち、謡曲『望月』では「信濃の国に隠れもなき大名」と評される豪族・望月氏が新たに築城したといわれる山城。 望月氏の始まりは平安時代初期まで遡り、清少納言の『枕草子』にもみられる貢馬「望月の駒」を最も多く朝廷に献上したことから、滋野氏の一族に望月姓が与えられたとされる。 また、望月氏が信濃十六牧の一つ・御牧の牧監として優れた馬を数多く有していたことは、『保元物語』や『源平盛衰記』にも記されている。 天文12年(1543年)には甲斐の武田信玄に攻められ、望月城も落城したことにより、望月氏は武田氏の支配下に入り、望月城も存続した。 しかし、望月城は武田氏が滅亡し、織田信長も本能寺の変にて斃れると天正壬午の乱の舞台となり、徳川軍の依田信蕃によって落城し、望月氏の嫡流も絶えたといわれている。
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余談だが、望月城主・望月盛時は第4次川中島の戦いにて討ち死にしているが、その後、妻である望月千代女は信玄にくノ一としての腕を買われたとされることがある。 その説によれば、千代女は甲斐信濃二国巫女頭領に任じられ、孤児となった少女たちを集めて歩き巫女と呼ばれる忍の養成を行うために甲斐信濃巫女道の修練道場を開いたとされている。