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コンスタンティノープル のバックアップ(No.8)
現実の城情報
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| 所在地 | トルコ共和国・イスタンブール |
| 現存状態 | 世界文化遺産・イスタンブール歴史地域 |
| 城郭構造 | 城郭都市 |
コンスタンティノープルの陥落(クリックで表示)
東西文明の十字路として地中海世界の中心に君臨したコンスタンティノープルは、その歴史のなかで度々外敵の攻撃を受けたが、テオドシウスの城壁をはじめとする強力な城壁がその攻撃を阻んできた。
559年にはスラヴ人に攻撃されたが、これはユスティニアヌス麾下の将軍ベリサリウスが撃退した。
ヘラクレイオス1世の治世ではササン朝ペルシアとの抗争で疲弊し、ペルシア遠征中の626年にはアヴァール人がコンスタンティノープルを包囲したが、これは留守を預かっていた総主教セルギオスが撃退した。
しかしヘラクレイオスはササン朝を破ったものの、新たに勃興したイスラームにヤルムーク河畔の戦いで大敗し、シリア・エジプトを奪われ失意のうちに死去した。
イスラームはコンスタンティノープルにも迫り、673~678年に五年間に渡って断続的に包囲し、717~718年にも包囲するが、コンスタンティノープルは強力な城壁とギリシア火で撃退し、バルカン半島は以後数世紀に渡ってイスラームから守られた。
1204年には宮廷の内紛から第4回十字軍の侵入を許し、この時にテオドシウスの城壁と比べると高さも強度も劣る、金角湾沿いの一重城壁が弱いことが判明した。
この地区はブラケルナイ地区と呼ばれ、のちのオスマン帝国による包囲の際にも集中的に狙われた。
オスマン帝国は1299年に小アジアで建国され、14世紀にはバルカン半島へ進出してコンスタンティノープルを度々包囲し、東ローマ帝国はオスマン帝国の属国となるまで地位が低下することとなった。
東ローマ帝国はオスマン帝国からの独立を図るが、1394~1402年にかけてオスマン帝国スルタンの「雷帝」バヤジット1世が断続的にコンスタンティノープルを包囲したが、バヤジットがティムールに大敗したため包囲が解かれた。
その後再興したオスマン帝国はムラト2世が1422年にコンスタンティノープルを攻撃したが撃退された。
1453年4月5日にオスマン帝国スルタンの「征服者」メフメト2世はバヤジットやムラトによる包囲の失敗を踏まえ、本格的なコンスタンティノープル攻略に着手した。
メフメト2世はボスポラス海峡のヨーロッパ側に築いたルメリ・ヒサルを攻撃拠点とし、ヴェネツィア船やジェノヴァ船を監視しコンスタンティノープルへの海上補給を封鎖した。
また「ウルバンの巨砲」などの大砲でブラケルナイ地区や隣接するメソテイキオン地区に集中的に砲撃を加えたが、土塁で防御された城壁に砲弾の威力を殺され、城壁を破ることはできなかった。
坑道を掘ることによる地下からの攻撃も試みたが、守備兵は坑道の位置を把握して対応し、坑道戦は失敗した。
さらにオスマン帝国艦隊はジェノヴァ艦隊・ヴェネツィア艦隊に敗れ、メフメトは艦隊を山越えさせるという奇策も用いたが、決定的な効果は得られなかった。
このようにメフメトは様々な手段で約二ヶ月間の攻城戦を行ったが、火砲に対抗できるよう改良された三重城壁を破ることはできず、総攻撃はいずれも撃退された。
ところが5月29日、集中攻撃により破損していたブラケルナイ地区の城壁に設けられた柵への攻撃の最中、これに対応していたジェノヴァ人指揮官ジュスティニアーニの負傷がコンスタンティノープルにとって致命傷となった。
ジュスティニアーニの戦線離脱によって守備兵も持ち場を離れて退却し始め、これを見たオスマン帝国兵が柵に殺到した。
東ローマ皇帝コンスタンティノス11世は内城壁のケルコポルタ門の鍵を開けるように命じ、より早く守備兵が柵の守りにつけるようにしていたが、混乱の最中オスマン帝国兵がこれを見つけて逆に内城壁内に侵入した。
コンスタンティノープルの内城壁は兵員不足からほとんど防御されていなかったため、侵入したオスマン帝国兵の攻撃に対応できず、ついに東ローマ帝国千年の都として難攻不落を誇ったコンスタンティノープルは陥落した。
Published by (C)DMMゲームズ
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