田丸城 のバックアップ(No.6)
現実の城情報
延元元年(1336年)に北畠親房・顕信父子が南朝義軍の拠点として砦を築いたのが最初と言われており、伊勢神宮を抑える戦略的要衝として争奪戦が繰り広げられた。 織田信長の伊勢侵攻後、城主の田丸直昌は城を明け渡して織田信長の次男・信雄に仕える。 続きをクリックで表示 永禄12年(1569年)、伊勢侵攻の残る抵抗勢力である北畠氏攻略を進めていた信長であるが、「大河内城の戦い」にて圧倒的戦力差で挑むも苦戦(有力な武将までも討たれるなどの有様であった) (※村山龍平=朝日新聞の創始者の一人。貴族院勅選議員。実家は紀州藩旧田丸領に仕えた旧士族。玉城町名誉町民第1号。現在田丸城の敷地が玉城町有となっているのは、氏の多大な貢献によるものといえる。その他多岐にわたる功績はウィキペディア等を参照されたし) この時分、田丸城を舞台として起こった事件として「三瀬の変」がある。 信雄以降は蒲生氏、稲葉氏、藤堂氏が相次いで入城し、元和5年(1619年)には、紀州徳川家(紀州藩)の属城となり、徳川頼宣(紀州徳川家初代)は付家老の久野宗成を田丸城城主として田丸領6万石を経営させた。以後、田丸城城主は久野氏8代が続き、明治2年(1869年)に廃城となる。 ちなみに、大岡忠相(のちの江戸町奉行の大岡越前守忠相)が山田奉行をつとめていた時代には、天領(山田領)と紀州藩田丸領の領地をめぐる争いの舞台の一つとなった。 平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城に選定。
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