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		御所ヶ谷神籠石  のバックアップ(No.6)
		
		 
		
 現実の城情報  
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| 所在地 | 福岡県京都郡みやこ町大久保 | 
| 現存状態 | 石塁、列石、水門口 | 
| 城郭構造 | 古代山城(神籠石式山城) | 
現存状態(クリックで表示)
山梁の南面と北斜面渓谷の東西両側の尾根に近い部分に、切石状の列石とその痕跡が4キロメートルにわたり残っている。
北斜面の東方、中央、西方の渓谷に東の門、中の門、西の門の石塁がある。特に中の門の石塁は高さ6メートル、長さ30メートル余りのもので、切石をもって構築され、基部には精巧な水門口がある。
西之門付近には馬立て場と称する石積が残っている。東の門にも石塁と列石が残り、築城は7世紀頃といわれている。
神籠石について(クリックで表示)
日本城郭検定でも登場する築城形式の一つではあるが、そこまで詳しくない者からすればいったい何故この名前が付けられているのか謎であろう。
ことの発端は明治31年(1898年)に小林庄次郎氏の報告にまで遡る。小林氏により筑後の高良山が踏査され「神籠石」と呼ばれる列石の報告があがった。
小林氏は神籠石=霊域であるという説を唱えていたが、明治33年(1900年)に女山、雷山、鹿毛馬の列石を調査した八木奬三郎氏は、神籠石が古代山城に由来する城郭説を唱えた。
また、八木氏は神籠石の存在がすでに昔から認識されていることを明らかにした。
福岡藩医である貝原益軒の著書『筑前国続風土記』の「怡土郡(22巻)」*1に登場する香合石(こうごうせき)*2の部分がそれに当たるとしたのだ。
霊域か城郭か。この論争の決着には数十年という年月を要した。
昭和34年(1959年)に原田大六氏が「神籠石の諸問題」を発表し、大陸からの防備を論拠に城郭である説を論じた。
昭和36年(1961年)には坪井清足氏が森貞次郎氏の論をもとに九州国内の契機が神籠石を生み出したとする城郭説を唱え、以後多数の考古学調査により現在は城郭説が定着する。
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