箕輪城 のバックアップ(No.4)
現実の城情報
武田信玄をして「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と言わしめた、「上州の黄班」長野業正の居城。「剣聖」上泉信綱との縁も深く、登城口には両者の名が書かれた旗が立てられている。 続きをクリックで表示 業正は、のちに新陰流を創始し「剣聖」と称される上泉信綱を筆頭とする「長野十六槍」を従え、弘治3年(1557年)から始まる武田信玄の西上野侵攻をことごとく撃退したが、永禄4年(1561年)の業正死後の長野氏は求心力を失っていく。 箕輪長野氏滅亡後は、かつて業正を頼って箕輪城下に居住したこともある真田幸綱(幸隆)や、武田四天王の一人・内藤昌秀(昌豊)など、武田氏の重臣が箕輪城代となるなど武田氏による西上野支配の最重要拠点となり、武田氏が滅亡すると織田信長の重臣滝川一益が厩橋城に移るまで入っていた。
城郭構造(クリックで表示) 城郭構造
箕輪城は榛名山から伸びる独立丘陵上の中心に築かれ、西の榛名白川と南の榛名沼が天然の堀となった。 箕輪城は大きく三つの時期に分けられ、最初期の箕輪城は長野氏・武田氏の時代で、その城域は現在の本丸・二の丸・三の丸の範囲だったと考えられており、本丸の南側と北側に堀が設けられた。 最後の井伊氏の時代も縄張が変わり門や石垣が整備され、現在の箕輪城の姿となった。この時代の門や石垣は、関ヶ原の戦い以前の関東の城郭では石垣山城を除き最大級のものだった。 コメント
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