天文8年(1539年)に聖寿寺館が焼亡した後、永禄年間(1558~1570年)に南部晴政が築城し、天正年間(1573~1592年)に完成したとされる南部氏の主城の一つで、留ヶ崎城とも呼ばれる。 甲斐源氏の流れをくむ南部氏のうち、三戸を本拠とした一族は三戸南部氏と呼ばれ、当初南部氏の宗家は根城を本拠とする八戸南部氏だったが、戦国時代になって三戸南部氏が台頭し宗家の地位になったとされる。 特に三戸城を築いた南部晴政は「三日月の丸くなるまで南部領」とうたわれる、南部氏の全盛期を築いた。
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天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置によって三戸南部氏の宗家としての立場は確立し、奥州再仕置によって九戸政実の乱が鎮圧されてからは九戸城(福岡城)に居城が移された。 慶長2年(1597年)には盛岡城の築城が開始されて徐々に本拠地の移転が進められ、寛永10年(1633年)に完成した。 以後南部氏は盛岡城を歴代の居城としたが三戸城は廃城にはならず、御古城と呼ばれて城代や代官が派遣され、石垣や建物が幕末まで維持・管理されていた。
三戸町立歴史民俗資料館(温故館)の史料からは、馬淵川と熊原川の浸食によって形成された比高90メートルの河岸段丘上にある連郭式山城であり、内部には主殿、御奥、千畳敷、大書院、御金蔵等の主要殿舎が建てられ、西側下には谷丸、北側下には淡路郭と呼ばれる腰郭が敷設されていた事がうかがえる。 大手と搦手に石垣が見られることは注目に値するが全体的な構造は単純なもので、南部家の伝統的な城郭と近世的な城郭が組み合わさった城といえる。 現在は公園として整備され、昭和42年(1967年)に模擬天守(温故館)、平成元年(1989年)には山麓に綱御門が復元された。
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