|
高水寺城 のバックアップ(No.3)
現実の城情報
|
| 所在地 | 岩手県紫波郡紫波町 |
| 現存状態 | 堀、土塁など |
| 城郭構造 | 平山城 |
城郭構造(クリックで表示)
高水寺城は岩手県紫波郡紫波町郡山の北側に位置する城山に築かれ、盛岡藩南部氏時代の郡山城では城山の範囲に留まるが、斯波氏時代は西側に連なる向山などの丘陵を含む広大な範囲を城域としていた。
城山の東側は北上川が流れ、北と南には平地が開けており、北西約2.5キロメートルの地点には前九年の役で源頼義・義家父子が、奥州合戦で源頼朝が着陣したとされる陣ヶ岡がある。
最高所の本丸を中心に南側には二の丸にあたる若殿屋敷が、東側には姫屋敷や右京屋敷などの曲輪が、西側斜面には多数の腰曲輪や帯曲輪が雛壇状に設けられ、各曲輪間は二重堀・三重堀によって守られ、城の西側には西御殿と呼ばれる別郭が置かれた。
城山から南西には堀切を隔てて向山、吉兵衛館が連郭式に続いている。なお、山上の右京屋敷は斯波氏家臣の岩清水右京の、向山は同じく家臣の向山大和の、吉兵衛館は九戸氏から入婿した高田吉兵衛康実の屋敷とされる。
さらに西側には戸部の御所とされる独立した曲輪があり、南東側に空堀が残っている。ただし地形から御所とするには狭小であり、高水寺城西側の出城のような役割を担っていたと考えられている。
吉兵衛館から北に約200メートルにある台地は、北西に腰曲輪を設けた広い曲輪となっており、ここも斯波氏一門の居館跡だったと思われる。
城山の北西には斯波氏時代に遡るとされる上町という町場があり、江戸時代には盛岡藩の郡山御給人の屋敷街が形成された。
城山北側には高水寺観世音のある走湯神社があり、そこから低地を挟んで西側、戸部の御所の北東側や南東側には寺院が集中している。
このように高水寺城は城山を中心に一族や重臣の居館や曲輪が連郭式に連なり、周囲には城下町や由緒ある寺社が存在するという、守護所を思わせる景観を形成していたと考えられる。
Published by (C)DMMゲームズ
コメントはありません。 Comments/高水寺城?