元弘2年(1332年)、楠木正成が嶽山に築いた城で、中腹に龍泉寺があることから龍泉寺城とも呼ばれ、千早城などとともに楠木七城の一つに数えられている。 延元2年/建武4年(1337年)、北朝方の細川顕氏に攻撃されると落城したが南朝方に奪還され、楠木正儀・和田正武が籠ったが、正平15年/延文5年(1360年)に北朝方の細川清氏、赤松範実により再び落城した。 室町時代に畠山家が義就派と弥三郎派に分かれると、室町幕府第8代将軍・足利義政は義就に弥三郎を攻めさせ家督を継がせたが、弥三郎が急死すると弥三郎派はその弟・政長を擁立した。 義就が大和国人の争いに介入していたことが問題視され義政との関係が次第に悪化すろと、ついには政長に家督を奪われ朝敵となったが、嶽山城で幕府の大軍を相手に2年以上持ち堪えた。 こうした籠城戦はその後の応仁の乱の長期化の一因ともされるが、義就は日本史上初めて水攻めを行なうなど軍事的には名将であったためとも言われ、空前の応仁の乱ブームの火付け役となった呉座勇一氏の『応仁の乱』では「畠山義就も戦国大名的な存在と言えよう」と評価されている。
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示