鎌倉時代から陸奥稗貫郡を支配した稗貫氏の室町時代から戦国時代にかけての本城で、鳥谷ヶ崎の地名は城の南東隅が北上川と豊沢川に向かって大きく突出する地形に由来するとされる。 稗貫氏は武蔵の中条氏の一族とされ、源頼朝が奥州藤原氏を征伐した奥州合戦での軍功によって稗貫郡を与えられたという。 稗貫氏の当主は代々出羽守を名乗り、建長8年(1256年)6月2日に奥大道沿いの夜討、強盗の取り締まりを命じられた郡地頭には、和賀氏とともに出羽四郎左衛門尉(稗貫光家)の名が『吾妻鏡』に記されている。 南北朝時代の動乱では稗貫氏は北朝方として活動し、北畠氏や南部氏と戦った。当初は小瀬川を本拠としていたが、後に本館に移り、室町時代には十八ヶ城に移っていた。 永享7年(1434年)から翌年にかけて起こった和賀・稗貫の乱の際、稗貫氏は十八ヶ城に籠城したが、斯波氏や南部氏などの軍勢と戦い敗れている。この時、鳥谷ヶ崎城には薄衣美濃が在城していた。
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稗貫氏が鳥谷ヶ崎城に本城を移したのは和賀・稗貫の乱後の15世紀半ば以降とされ、三の丸の発掘調査によって15世紀から16世紀にかけて大規模な城館が存続していたことが判明している。 天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐に際し、稗貫広忠は小田原に参陣しなかったために稗貫氏は改易され、同年に浅野長吉が和賀・稗貫郡で検地を行い、鳥谷ヶ崎城には浅野重吉が入った。 同年10月、広忠は和賀義忠とともに和賀・稗貫一揆を起こし、かつての義忠の居城だった二子城を奪還し、さらに鳥谷ヶ崎城も包囲した。 落城寸前となった鳥谷ヶ崎城には南部信直が救援に駆け付け、城を守っていた重吉は信直に救出されて三戸に逃れ、広忠は鳥谷ヶ崎城の奪還と旧領の回復に成功した。 しかし翌天正19年(1591年)になって南部領で九戸政実の乱が起こったこともあり、秀吉は奥州再仕置軍を派遣した。広忠と義忠はこれを迎え撃ったが敗れ、和賀氏・稗貫氏は没落した。 和賀・稗貫一揆の鎮圧後、和賀・稗貫郡は南部信直に与えられ、重臣の北秀愛が郡代として鳥谷ヶ崎城に入り、花巻城と改称された。
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