日本三大平城の一つである広島城の別名。 鯉城は「りじょう」と読むが、なぜ鯉城と呼ばれるようになったかは明らかではない。 以下、広島城の贈り物イベントの台詞を参照。
この城は、日本百名城の一つで、大坂城や岡山城などと共に初期近世城郭の代表的なものである。 さらに名古屋城、岡山城と共に日本三大平城と呼ばれることもある。 また、櫓総数は八十八基と日本一の櫓数を誇っている。
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この城の築城主は毛利輝元で、天正16(1588)年に聚楽第(じゅらくてい)を見た際に感銘を受け、この城を建てようと決意したとされる。 築城場所に選ばれたのは、広島湾に近い大田川の河口に広がる三角州で、これは、瀬戸内への進出を見越しての選定であった。 そして関ケ原の戦いを経て、輝元が転封されると、城主は福島正則となる。
正則は、城下町を整備することで領地への影響力を強めていったが、正則の支配も長くは続かなかった。 正則は石垣の改築などを行い、無断築城で改易されてしまうが、これは洪水による被害の修復をするのが目的だったとされる。 この城は、地震で石垣や多門、櫓に塀なども崩壊したことがあり、洪水だけでなく地震にも多くの被害を受けたと言われる。 そして、改易された正則の後に城主となったのが浅野氏であった。
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