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		赤穂城  のバックアップ(No.2)
		
		 
		
 現実の城情報  
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| 所在地 | 兵庫県赤穂市加里屋 | 
| 現存状態 | 石垣、堀など | 
| 城郭構造 | 変形輪郭式平城 | 
赤穂事件と忠臣蔵(クリックで表示)
元禄14年(1701年)3月14日、江戸城松之大廊下にて、播州赤穂3代藩主・浅野内匠頭長矩が高家筆頭・吉良上野介義央に斬りつけるという事件が起きた。
高家とは吉良家や今川家など、室町時代より続いた名門の家が任命される役職であり、「高」とは足利高氏(尊氏)の「高」を意味し、室町幕府将軍の血を引く家とされていた。
高家の役割は、朝廷との連絡や江戸城の儀式を担当することであり、このときもちょうど朝廷への挨拶と朝廷からの使者の接待といった儀式が行なわれており、上野介も勅使饗応指南役を務め、内匠頭はその補佐役であった。
事件を目撃した梶川頼照(与惣兵衛)の『梶川与惣兵衛日記』によると、内匠頭は「此間の遺恨覚えたるか」と上野介のうしろから声をかけ斬りつけ、驚いた上野介が振り向くとまた斬りつけ、上野介は梶原の方に逃げるとまた二太刀ほど斬りつけられ、うつむきに倒れたという。
梶原は咄嗟のことで思わず内匠頭を抱きかかえ制止したが、「浅野殿の心中を思えば、討たせてやればよかった」と反省している。
その後、内匠頭は老中である忍藩主・阿部豊後守正武の取り調べを受けると、江戸城平川門より田村右京大夫の屋敷に護送された。
余談だが、平川門は「不浄門」とも呼ばれ死者や罪人を出す門とされていたが、罪人として生きてここから出た人間は内匠頭の他には、正徳4年(1714年)に山村座の役者・生島新五郎との密通の罪で信濃国高遠に流刑となった絵島(江島)のみである。(絵島生島事件)
ともかく江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の怒りを買った内匠頭は即日切腹を申しつけられ、上野介はお咎めなしだったが、本来なら打ち首でもおかしくないところ、武士の名誉である切腹を申しつけられたことに内匠頭は感謝している。
ただし、内匠頭は最期まで上野介がどうなったかは訊ねておらず、討ち果たしたものと思い込んでいたとも考えられる。
いずれにせよ清水克行氏の『喧嘩両成敗の誕生』によれば、上野介は最後まで手向(応戦)をしておらず「喧嘩」とみなせるかは疑わしい案件であったが、幕府の裁許は目付の多門重共(伝八郎)などに批判され、後年には儒学者の浅見絅斎も喧嘩両成敗の法を採用すべきだったとしている。
内匠頭の辞世の句とされる「風さそふ 花よりもなを われはまた 春の名残を いかにとかせむ」は検使役を務めた重共の創作と考えられ、内匠頭が自身の差料の刀で介錯されたという逸話も事実とは考えられない。
内匠頭が乱心した理由は、内匠頭が上野介への贈り物を怠り必要な連絡も取れなくなったこととされるが、教えを乞う者が贈り物をするのは当時の慣行としては当然のことであり、また突発的な事件であったことは内匠頭自身も認めたところである。
上野介は領地である三河国幡豆郡では名君として慕われていたとも言うが、上野介は領地にはその生涯で一度しか訪れていない。
上記の刃傷事件は赤穂事件の始まりに過ぎず、江戸城より赤穂城へ、内匠頭の切腹と赤穂浅野家の取り潰しを伝える急報が届くと、赤穂藩は大きく動揺した。
まず赤穂藩の10匁の価値がある藩札を持つ商人たちが押し寄せ、国家老の大石良雄(以下、一般に知られる通称の内蔵助で統一)は浅野家本家である広島藩やその支藩である三次藩に借金を願い出たが断られ、6匁の銀と交換することでなんとか対応した。
赤穂藩は製塩業のおかげで、5万3千石の領地でありながら、実質7、8万石の藩に相当する収入があったことも不幸中の幸いであった。
問題は赤穂城の明け渡しであるが、あくまで内蔵助ら赤穂浅野家家臣の主君は内匠頭であり、将軍からの命令があったからと言って容易に応じるわけにはいかなかった。
そのため建前上は議論のためだが赤穂城に集まって籠城し、浅野家の一門である広島藩や大垣藩の戸田采女正氏定が明け渡しに応じるように説得にあたった。(詳細は大垣城のページにて)
上野介が生きていることを知ると抗議のため切腹しようともしたが、江戸では堀部安兵衛ら強硬派が「武士の一分」のために吉良邸討ち入りを画策し、赤穂城に戻るとその機会を待った。
しかし、内蔵助はあくまでも内匠頭の弟である浅野長広(大学)による赤穂浅野家再興を目指していたと考えられる。
いずれにせよ上野介になんらかの処罰が下されない以上苦しい立場であったが、結局耐え切れず赤穂城は幕府に明け渡されることとなった。
こうして浪人となった赤穂藩士は次第に困窮したが、将軍の怒りを買って長広が「閉門」という処罰を受けていたため広島藩や大垣藩も援助できず、赤穂浅野家再興も期待できなかったため、安兵衛に同調し討ち入りを決意する者が増えていった。
一方で、内蔵助は「閉門」は3年で赦されるのが普通であるから、内匠頭の3回忌まではおとなしくして、長広の処遇が決まるのを待つべきだと考えていた。
また、江戸中で赤穂浪士による吉良邸討ち入りが噂となり、世間の期待に応えねば武士の面子が立たないという事態となると、慌てた上野介は隠居を願い出て許された。
安兵衛ら強硬派と内蔵助ら再興派との対立も次第に深刻化したが、京都の山科で行なわれた会議ではすぐに討ち入りという意見は少数派であり、しばらく様子を見ることとなった。
しかし、元禄15年(1702年)7月18日に長広が広島藩の浅野本家に引き取られることが決定し、赤穂浅野家再興の望みが完全に断たれたため、内蔵助も円山で会議を開くとついに吉良邸討ち入りの決意を表明した。
もっとも奥野定良(将監)など内蔵助に反発し脱盟する者も多く、120人ほどいた同志は50人程度に減った。
なお内蔵助は山科会議から円山会議の間、遊郭で豪遊していたともされるが後年の創作であり、最も多い支出は江戸と上方を往復する旅費であった。
内蔵助は曾我兄弟が仇討ち成功の祈願をしたとされる箱根神社や、鶴岡八幡宮で討ち入り成功の祈願をすると、服装を黒の小袖で統一し、武器は各々自由に用意するように通達した。
江戸で「討ち入りなど成功するわけがない」という悲観的な噂が広まると、やはり脱盟する者もいたが、48人の赤穂浪士が残った。
このうちの一人である毛利小平太は討ち入り直前に兄に止められ最終的には47人となったが、吉良邸の内部を探るなど貢献したのは確かなことである。
また、当時の江戸でも吉良邸は要塞のようなつくりであったという噂があったが、小平太の活躍により至って普通の屋敷であることが確認されている。
吉良邸討ち入りは仇討ちという大義名分を利用した赤穂浪士の再就職活動であったという説もあるが、彼らが家族に宛てた手紙を見ると、死を覚悟した討ち入りであったようである。
『喧嘩両成敗の誕生』も「こうした彼らの「片落」に対する不満が、彼らをして最終的に「吉良邸討ち入り」という自力救済行為に向かわせた要因のひとつだったことは明らかだろう」と、喧嘩両成敗という天下の大法を実現するための討ち入りだったしている。
討ち入り当日、吉良邸には100人以上の家臣がいたとされるが、実際に戦闘に参加したのは40人程度であり、表立って赤穂浪士に味方をすることはできないが同調した者もいたようである。
赤穂浪士側では、江戸で辻斬りを働いていたという噂もある不破数右衛門が4、5人を斬ったという働きをするなどした。
当初、上野介の姿は見えなかったが、台所の裏に物置のような部屋があることに気付き、安兵衛や矢田五郎右衛門が隠れていた二人の者をそれぞれ討ち、武林唯七が中にいたもう一人の者を槍で突き、間十次郎が刀で首を挙げたが、これが上野介であった。
吉良側は16人の死者を出し、赤穂浪士側は一人の死者も出さずに上野介を討ち取るという大勝利であった。
大目付の仙石伯耆守久尚へ報告をしに行った吉田兼亮(忠左衛門)と富森正因(助右衛門)の二人と、仔細は不明であるがいつの間にか姿を消していた寺坂信行(吉右衛門)を除く内蔵助ら赤穂浪士は討ち入りのあと泉岳寺に引き揚げた。
これは上野介の首を墓所へ備えるためであり、あくまで切腹して果てることを考えていたという。
泉岳寺の住持は赤穂浪士に好意的で、切腹をしばし待つように止めると、彼らを酒宴で持て成した。
赤穂浪士の処分については幕府も彼らが忠臣であることは理解しており苦慮したが、結局討ち入りは「徒党」であり仇討ちとは認めず、切腹を命じた。
やはり切腹は武士の名誉であり、内蔵助はこの処置に感謝したとも言うが、彼らが本当に腹を切って果てたか否かには異論がある。
いずれにせよ世論が赤穂浪士に味方したためか、吉良家を継いだ吉良義周(左兵衛)が討ち入りを防げなかったという厳しい理由で諏訪高島藩主・諏訪安芸守忠虎にお預けとなる一方で、切腹を覚悟していた赤穂浪士の遺児は遠島(流罪)の処分で済み、綱吉の死後には長広により赤穂浅野家は再興した。
この一連の事件を「赤穂事件」と呼び、寛延元年(1748年)に成立した浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』の影響もあって、現代でも『忠臣蔵』としてよく知られている。
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