今川氏滅亡後、駿河国を領した武田氏が徳川氏の領土となった遠江国を攻めるため、天正元年(1573年)に築いた出城。 諏訪原城は牧之原台地の北端に築かれ、南を通る東海道が菊川から牧ノ原へと抜ける地点を押さえる要衝で、武田氏が遠江の最重要拠点とした高天神城への補給路を確保する重要拠点でもあった。 天正3年(1575年)、長篠の戦いで織田・徳川連合軍が武田氏を破ると徳川家康は武田氏に対し逆襲に転じ、約一ヶ月に渡る籠城戦の末に城兵は田中城?へと逃亡し、諏訪原城は落城した。
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徳川氏の支配下に置かれた諏訪原城は古代中国の故事にちなんで牧野城と改称され、武田氏時代の縄張を踏襲して改修された。 諏訪原城の特徴は中心となる主郭を中心に放射状に通路を設け、その先に馬出を配置するという構造だが、これは後に聚楽第の設計に影響を与え、聚楽第型城郭が広まることになったと考えられている。 最大の特徴は約70メートルにもおよぶ巨大な三日月堀と丸馬出で、これらは武田氏の築城技術の代表的なものであり、良好な状態で残る諏訪原城は武田流築城術の典型例とされてきた。 しかし近年の発掘調査で、これらの丸馬出や三日月堀は徳川氏によって改修が行われた可能性が高まっており、徳川氏の築城技術への注目も集まってきている。 武田氏が滅亡すると諏訪原城の重要性は失われ、天正18年(1590年)に廃城となった。
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