江戸時代に幕政参加への登竜門となった、非常に珍しい円形の縄張が特徴的な城。その形が亀の甲羅のように見えることから「亀城」「亀甲城」とも呼ばれ、本丸跡に創立された西益津小学校では毎年亀城祭が行われている。 天文6年(1537年)に今川氏の命によって一色信茂が築いたのが始まりで、当時は徳之一色城と呼ばれていた。 一色氏の没落後は由比氏が城主となったが、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで由比正信が討死し、長谷川正長が入った。この正長の次男である宣次の8代目の子孫が、池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』で有名な火付盗賊改の長谷川平蔵宣以である。 永禄13年(1570年)に武田信玄が駿河に侵攻すると正長は城を捨て、信玄はこの城を遠江攻略の拠点として改修した。 改修は馬場信房が担当し、円形の本丸を中心に同心円状に三重の堀を巡らし、武田流築城術の特徴でもある丸馬出も設け、田中城と改称した。
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完成した田中城は山県昌景が城代となり、元亀3年(1572年)には板垣信安が入り、「田中の板垣殿」と呼ばれた。 天正3年(1575年)の長篠の戦いで武田氏が大敗し昌景や信安が討死すると、田中城には昌景の子・昌満が入り、徳川家康の攻撃からよく城を守った。 天正7年(1579年)には二俣城で果敢な籠城戦を展開した依田信蕃が田中城に入り、ここでも頑強に抵抗したが、天正10年(1582年)に開城した。
徳川氏の城となった田中城は高力清長が城主となり、家康は鷹狩や上洛時の宿舎としてよく使ったという。 天正18年(1590年)に家康が関東へ移ると田中城には駿府城主中村一氏の家老・横田村詮が入った。 関ヶ原の戦い後は酒井忠利が入って田中藩を立藩し、総構を構築するなど城の改修を行い、城下町も整備した。 忠利が武蔵川越に移ると、田中城は家康の十男・頼宣の支配下に置かれ、大御所・家康や将軍の宿泊施設となる。 家康が御用商人の茶屋四郎次郎のもてなしにより、田中城で鯛の天ぷらを食したのはこの時期になる。
寛永10年(1633年)以降は譜代大名が代るがわる城主を務め、そのほとんどが幕府で要職を務めたことから、田中城は幕閣への登竜門だったといえる。 明治元年(1868年)、徳川家達が静岡藩初代藩主となって田中の地もその支配地となり、田中藩は廃藩され田中城も廃城となった。
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