天文元年(1532年)に沼田顕泰によって利根川沿いの河岸段丘上に築かれた丘城で、当初は倉内城と呼ばれた。 上越国境の要衝だったため上杉氏・北条氏・武田氏による争奪戦の舞台となり、天正8年(1580年)に真田昌幸が奪取した。 本能寺の変後に起こった天正壬午の乱の結果、沼田城は真田氏の領有となったが北条氏との間で沼田領問題が発生した。 一時は北条氏が領有するものの、沼田城代猪俣邦憲が名胡桃城を奪取したことで、小田原征伐が引き起こされることとなる。 小田原征伐の後は真田信幸が城主となり、関ヶ原の戦い後も引き続き城主として五層の天守を築くなど整備を進めた。 明暦4年(1658年)には真田信直が起こしたお家騒動により沼田藩として独立したが、実高3万石(6万国)を14万千石と幕府に報告し領民に負担を強いた。この悪政により天和元年(1681年)に信直は改易され、翌年に沼田城も破却された。
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