武田氏滅亡後、甲斐国の領有権をめぐって徳川家康と北条氏政の間で激しい衝突があった。のちに語られる天正壬午の乱(1582年)である。 旭山砦はその際に築かれたものであり、記述に関しては『武徳編年集成』に認められ「神君ト北条和融ニ因テ氏直野辺山ノ陣ヲ退ントシテ、平沢ノ朝日山ニ砦ヲ築カシム」とある。 野辺山と平沢の地名はあきらかな誤りだが、この記述から北条氏直の命令で築かれたことがわかる。 八ヶ岳南麓に点在する流れ山のなかでも最大規模を誇る旭山は、東の麓を佐久住環が南北に通っているためここを押さえる目的で築城された。 また、江戸時代後期の地誌『甲斐国志』ではその眺望から烽火台と推測している。和議を結んだのち、佐久住環を北上しての撤退を背景に持つ築城のため、烽火台としての蓋然性は低い。 あくまで背後の守りとして砦を築いたとされる。そのせいで家康の怒りを買い、攻撃態勢を整えたうえで氏直に使者を送った。 氏直は砦を取り壊して謝り、人質を交換してようやく撤退が完了している。その点を踏まえると、旭山砦は完成を待たず取り壊されたと考えられる。
城郭構造(クリックで表示)
北端を山頂とし、南北に330メートル、東西160メートルに広がる縄張りには三つの郭が存在する。 徳川方の南からの攻撃を想定しているだけあって、一の郭は北側に広く在り、二の郭、三の郭はともに小範囲で南に配置されている。 南辺には横矢がかけられていたり、堆い土塁が行く手を阻むような構造となっていた。 一の郭下の帯郭外縁に沿った高さ50センチメートル程度の土塁が途中で途切れ虎口のようになっている。 一の郭は造成途中のためはっきりとはしないが、虎口に入った敵を三方の高所から射掛ける枡形を意識したものではないかと思われる。 家康からの要請で取り壊した砦だが、山道を抜ける北側の出入り口は後世の破壊と考えられている。
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