中新田城は大崎合戦における争点の城であった平城である。 鳴瀬川左岸の低地に中心の本丸を取り囲む二の丸とその周囲に巡らせた幅広の堀、その外に堀を伴う外郭とかなり大がかりな平城である。 元々は大崎氏の居城の1つであったとされており、築城は奥州管領斯波家兼の奥州下向と同時期の文和3年(1354年)とされている。 大崎義直・義隆の代には当主自身が在城していたが、後に義隆が名生城に移ると家臣南条隆信が城主として入った。
続きをクリックで表示
大崎合戦が始まると、伊達勢は大崎領に侵入し中新田城を包囲した。 これは伊達氏に救援を依頼した氏家吉継が岩出山城主であったため、これを連絡をつけるためと考えられる。 中新田城を包囲した伊達勢であったが、一帯は鳴瀬川とその支流が作る低地で2月に侵攻したこともあり雪の影響で湿地同然となっていたと見られる。 そのため攻城は滞り、そうこうしているうちに初春の大雪(南東北は3月後半ぐらいにまとまった雪が降り積雪することがままある)に見舞われ進退が窮まった。 中新田城主南条隆信はこの機を逃さず伊達勢に総攻撃を仕掛け、さらに黒川晴氏が大崎方に転じ背後からも攻撃をしかけたため伊達勢は壊滅的敗北を喫し退却を余儀なくされた。 廃城時期は不明であるが、奥州仕置で大崎氏が改易された頃もしくは大崎葛西一揆後が妥当と見られている。 本丸跡地には江戸時代に入り2代藩主忠宗が訪れた際に御仮屋を設置したという記録がある。 現在では加美町の市街地の中に埋もれてしまっており、堀跡が道路化しているなど当時の面影を偲ぶことが出来る程度である。
コメントはありません。 Comments/中新田城?
コメントはありません。 Comments/中新田城?