ハンガリーのフニャディ・ヤーノシュ、ワラキアのヴラド・ツェペシュ、アルバニアのスカンデルベグとともにオスマン帝国と戦ったモルドヴァ共和国の国民的英雄、モルドヴァ公シュテファン3世(シュテファン大公)の居城。 スチャヴァ城はモルドヴァ公ペトル2世によって築かれ、以後スチャヴァは1388年から1565年にかけてモルドヴァ公国の首都となり、スチャヴァ城は歴代のモルドヴァ公が居城とした。 1457年にモルドヴァ公となったシュテファン大公はスチャヴァ城を改修・拡張し、従来あった2つの円形城塔を取り囲むように新たな城塔を築き、その外側には城壁が巡り堀によって防御された。
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シュテファン大公はスチャヴァ城を本拠地に、ホチム城やソロカ要塞などの城塞群を構えオスマン帝国に対抗した。 当時のオスマン帝国のスルタンはコンスタンティノープルを攻略した「征服者」メフメト2世で、1475年にはモルドヴァ公国もメフメト2世の侵攻を受けた。 12万とも言われる大軍を擁して攻め寄せたオスマン帝国に対し、シュテファン大公はポーランドやハンガリーの支援も受けてヴァスルイで迎え撃ち、オスマン帝国は4万人の死傷者を出す大敗北を喫した。 シュテファン大公は翌年のスチャヴァ城への攻撃も撃退し、メフメト2世はモルドヴァからの退却を余儀なくされた。 このオスマン帝国に対する勝利でシュテファン大公の武勇はヨーロッパ中に知れ渡り、ローマ教皇に「キリストの戦士」と称された。
シュテファン大公はその後もオスマン帝国と戦ってモルドヴァ公国の独立を維持し、1504年にスチャヴァ城で死去した。 その治世でキリスト教圏をイスラームの脅威から守り抜き、教会や修道院を多数建設して文化的発展にも貢献したシュテファン大公は、モルドヴァ・ルーマニアの国民的英雄として称えられ、1992年にルーマニア正教会で聖人に列せられた。 シュテファン大公の死後、1565年にモルドヴァ公国は首都をヤシに移転したためスチャヴァ城の重要性は失われ、1675年のモルドヴァ公ドゥミトラシュ・カンタクジーノの代で破壊されて以降は放棄された。 そのため城は荒廃していったが1960年代に修復が行われ、2013年からは往時の姿を取り戻すための大規模な復元計画が進められている。
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