330年、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が現在のイスタンブールの地に建設した、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の都。 413年にはテオドシウス2世がコンスタンティヌスの市壁から防衛線を西に伸ばした、高さ13メートル、三重城壁の「テオドシウスの城壁」を築き、半島は金角湾とマルマラ海沿いの海岸城壁、テオドシウスの城壁によって完全に防御された。 コンスタンティノープルは559年にスラヴ人に攻撃されたが将軍ベリサリウスが撃退、アラブ人による673~678年の5年間の包囲、717~718年の包囲も強力な城壁とギリシア火で撃退し、バルカン半島は数世紀に渡ってイスラーム勢力から守られた。 以後もコンスタンティノープルは文明の中心地として繁栄し、城壁も攻城戦技術の発展に対応して改修が繰り返された。
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しかし1204年の第4回十字軍の際に内紛によって一時的に攻略され、この時に金角湾沿いの一重城壁が弱いことが判明した。 さらに14世紀からはオスマン帝国の脅威にさらされ、1422年の攻撃は撃退したが、1453年4月5日にオスマン帝国スルタンのメフメト2世は本格的なコンスタンティノープル攻略に着手した。 メフメト2世はボスポラス海峡のヨーロッパ側にルメリ・ヒサールを築いて攻撃拠点とし、「ウルバンの巨砲」などの大砲を用いて約二ヶ月間の攻城戦を行ったが、火砲に対抗できるよう改良された三重城壁を破ることはできなかった。 ところが5月29日、守備兵が鍵を閉め忘れたことによってオスマン帝国兵に城内に侵入され、さらにジェノヴァ人指揮官ジュスティニアーニが負傷したことで城兵は混乱した。 コンスタンティノープルの内城壁は兵員不足からほとんど防御されていなかったため、オスマン帝国兵の攻撃に対応できず、ついに東ローマ帝国千年の都として難攻不落を誇ったコンスタンティノープルは陥落した。
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