田丸城 のバックアップ(No.12)
現実の城情報
延元元年(1336年)、後醍醐天皇を吉野に迎えるために伊勢に下った北畠親房・顕信父子が南朝義軍の拠点として玉丸山(標高51m)という丘陵地の突端部上に砦を築いたのが最初と言われており、この地は伊勢街道と熊野街道(世界遺産である熊野古道:伊勢路で、ここが出立の地となる)の分岐点という交通の要衝であったため、伊勢神宮を抑える戦略的要衝として争奪戦が繰り広げられた。(もちろん宿場町としても栄えており、現在も少しだが名残がある模様) 康永元年(1342年)、足利尊氏によって落城したが、室町時代には伊勢国司となった北畠氏の手によって再建される。 その後北畠氏が北勢(伊勢国北部)に拠点を移すと、北畠家の庶流で第5代北畠政郷の四男顕晴が田丸城に入り田丸氏を名乗った。 織田信長の伊勢侵攻後、時の城主であった田丸直昌は宮川近くの岩出城(現在の玉城町岩出地区、跡地とされるであろう場所に岩出城開墾碑が建てられている)に移動し、田丸城を明け渡して織田信長の次男・信雄に仕える。 続きをクリックで表示 永禄12年(1569年)、伊勢侵攻の残る抵抗勢力である北畠氏攻略を進めていた信長であるが、「大河内城の戦い」にて圧倒的戦力差で挑むも苦戦を強いられる(有力な武将までも討たれるなどの散々な有様であった) 和睦が成立したことで、天正3年(1575年)に田丸城は信雄の居城となり大改築される事となった。 (※村山龍平=朝日新聞の創始者の一人。貴族院勅選議員。実家は紀州藩旧田丸領に仕えた旧士族。玉城町名誉町民第1号。現在田丸城の敷地が玉城町有となっているのは、氏の多大な貢献によるものといえる。その他多岐にわたる功績はウィキペディア等を参照されたし) また、田丸城の南には外城田川(ときだがわ)が流れており天然の堀の役割をはたしているのだが、この改築の際に外城田川の流れを変更し、城下を囲む外堀としたとされており、その堀は堀幅は狭くなってはいるものの現在もほぼ残存している。 この時分、田丸城を舞台として起こった事件として「三瀬の変」がある。 一族誅殺の報を聞いて激怒した具教の弟である北畠具親が天正5年(1577年)に挙兵するが、年内にはこの反乱も鎮圧され、具親は毛利輝元を頼って安芸国にまで亡命。 信雄以降は蒲生氏、稲葉氏、藤堂氏が相次いで入城し、元和5年(1619年)には、紀州徳川家(紀州藩)の属城となり、徳川頼宣(紀州徳川家初代)は付家老の久野宗成を田丸城城主として田丸領6万石を経営させた。以後、田丸城城主は久野氏8代が続き、明治2年(1869年)に廃城となる。 ちなみに、大岡忠相(のちの江戸町奉行の大岡越前守忠相)が山田奉行をつとめていた時代には、天領(山田領)と紀州藩田丸領の領地をめぐる争いの舞台の一つとなった。 平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城に選定。
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