肥後・筑後の国境に位置し、肥後熊本藩の本城・熊本城を守る8つの支城群のなかでも肥後北端を押さえる重要拠点。 鷹ノ原城の名は「鷹ノ原」の地名から江戸時代中期以降に「鷹ノ原城跡」と呼ばれたことに由来し、存城中は「南関城」「南の関城」「関ノ城」などと称された。 南関の地はその名の通り関所が筑後の南に置かれた場所で、古来より官道が通り大水駅が置かれ、室町時代から江戸時代にかけては豊前街道が通り、筑後から肥後へ入る際の玄関口となっていた。 室町時代には大津山城が築かれてこの地を守っており、天正16年(1588年)に肥後半国の領主となった加藤清正は、大津山城に加藤正次を城代として入れた。 関ヶ原の戦い後に肥後一国の領主となった清正は領国防衛のため、肥後の国境に8つの支城を築き、そのうち北端を守る拠点として築かれたのが南関城だった。
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南関城は標高約110メートルの東西に広がる丘陵上の東端に築かれ、本丸を中心に北側に二の丸、西側に三の丸がL字型に配置され、南麓を豊前街道が通り北側は長谷と呼ばれる深い谷が走っていた。 従来、南関城は土造りを主体とした中世から近世への過渡期の城郭と考えられていたが、平成9年(1997年)の発掘調査で城の全域で石垣が発見され、総石垣造りの近世城郭であったことが判明した。
なぜ土造りの城と思われていたかというと、城全体が平均5メートルの盛土で覆い隠されていたため、石垣がほとんど確認されていなかったからである。 その盛土は破城によるもので、元和元年(1615年)に一国一城令で廃城となったのち、改めて破城が行われた。 土の中から寛永13年(1636年)に鋳造が始まった寛永通宝が発見され、破城はこの年以降に行われたと考えられている。 この時期はちょうど島原の乱が起こった頃であり、一揆勢が廃城になっていた原城に立て籠もって激しく抵抗したこともあり、日本全国ですでに廃城となった城の破却が行われており、南関城もまた徹底的に破却された。 その破城は凄まじく、石垣を一つ一つ外して堀底に並べ、その上に念入りに土を盛って城全体を土の中に埋めてしまうというものだった。 わずかに残る打込接で積まれた石垣は、熊本城と同じく扇の勾配と呼ばれる独特の形状をしている。
破壊されたのちも豊前街道が通るこの地は多くの人々に利用され、特に参勤交代では肥後国内での最後の休憩所・宿泊所であったため御茶屋が置かれた。 現在見られる御茶屋は嘉永5年(1852年)に完成したもので、平成15年(2003年)に「豊前街道南関御茶屋跡」として国の史跡に指定された。
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