駒ヶ嶺城(こまがみねじょう)は福島県相馬郡新地町(陸奥国宇陀郡)にあった城で、江戸期の伊達氏の要害の一つ(後に所に格下げ)。 駒ヶ嶺地区の北にある小高い丘陵に築かれた平山城であり、丘陵を利用した急斜面や深い空堀、土塁など防衛を重視した縄張りになっている。 永禄年間に伊達稙宗の隠居領を巡り相馬氏と伊達氏の対立が始まると、宇陀郡の北、亘理郡を所領とする亘理氏の存在が相馬氏にとっての懸案となった。 これは当時の亘理氏当主亘理元宗は伊達稙宗の十二男で伊達氏に近い立ち位置をとっていたためであり、相馬氏はこれに備える必要に迫られたのである。 駒ヶ嶺城はこの頃に駒ヶ嶺地区の北の小高い丘陵に平山城として築かれ、相馬家臣藤崎摂津が在城したとされている。
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伊達輝宗の代に伊具郡が伊達氏の手に戻ると、残る伊達稙宗遺領にあった駒ヶ嶺城は伊達氏の強い圧力にさらされるようになり、最終的に天正17(1589年)年亘理重宗の攻撃によって落城することとなる。 これにより宇陀郡北部(現在の福島県新地町)は再度伊達氏領となり、駒ヶ嶺城には丸森城から黒木宗俊が移り城主となり、その後桜田元親と交替した。 江戸時代に入ると駒ヶ嶺要害として仙台藩領南端の防衛に関わる要所と位置づけられ、新田氏、富塚重信などを経て、宮内定清以降は宮内氏が代々城主を務めた。 18世紀には要害から所へと格下げされるも役割はかわることがなく、戊辰戦争が始まると、浜通り方面防衛のための本営が置かれた。 しかし、相馬中村藩が新政府軍に降伏したことで、新政府軍の大規模な攻勢を受けることとなり、あえなく落城した。 仙台藩は奪還を試みたものの失敗に終わり、そのまま仙台藩も新政府軍に降伏したため、廃城となった。
現在では城跡は城址公園となっており、江戸時代末期における縄張りや空堀などの遺構が現在でもはっきり見て取れるほどによく保存されている。 また麓には戊辰戦争の際の戦死者を弔う仙台藩士戊辰戦没之碑も立っている。
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