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		鍋倉城  のバックアップ(No.1)
		
		 
		
現実の城情報  
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| 所在地 | 岩手県遠野氏遠野 | 
| 現存状態 | 堀、土塁など | 
| 城郭構造 | 平山城 | 
城郭構造(クリックで表示)
鍋倉城は来内川南岸にそびえる比高74メートルの鍋倉山全体を城城とし、麓には遠野南部氏の居館が構えられた。
居館に隣接して坂下門、坂の途中に中の門が置かれ、鍋倉山北東部の三の丸へとつながっている。三の丸の西側には本丸大手門があり、小土塁を備えた平場を経て本丸北東側の腰曲輪に出るような構造となっている。
腰曲輪から右手に進むと本丸北西側の虎口空間に入り、左手に進むと本丸南側の喰違虎口へと続く。本丸の西・南・北側には土塁が巡らされ、西側には搦手門があった。
本丸では遠野南部氏時代の礎石建物跡と阿曽沼氏時代の竪穴建物跡があり、本丸から堀切を挟んで南に二の丸、北東に三の丸を配置している。本丸の西側中腹には空堀が設けられて虎口もあり、周囲の斜面には雛壇状の屋敷地や馬場もあった。
江戸時代には二の丸に新田氏、三の丸に中館氏と福田氏、本丸北西側の腰曲輪には工藤氏と沢里氏、馬場付近の曲輪には小新田氏など、遠野南部氏一門と重臣の屋敷が構えられていた。また『遠野古事記』によると沢里屋敷の場所は阿曽沼氏の家臣宮森勘十郎の屋敷だったといい、山上の曲輪に家臣の屋敷を配置する構造は阿曽沼氏時代も同様だったと考えられる。
阿曽沼氏時代には城内に二階門が存在したが、遠野南部氏時代の本丸は大手門、搦手門ともに平門の四脚門だったという。
二の丸と馬場の南に延びる尾根は大規模な堀切で分断され、城城の南限となっている。
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