筑前と豊前の境に築かれ、純粋に軍事面に特化した国境警備の城で、黒田六端城(筑前六端城)の一つに数えられる。 永承元年(1046年)に筑前の国人・長谷川吉武の家臣・永井宗久によって築かれたとされ、元弘3年・正慶2年(1333年)に小弐頼尚が再築し、城は一族の筑紫氏に与えられた。 戦国時代、鷹取城の周辺は大友氏と大内氏が勢力争いを繰り広げ、鷹取城主毛利鎮実は最終的に大友氏に属した。 天正14年(1586年)には鎮実に代わって筑紫広門が城主となったが、岩屋城の戦いに先立って島津軍に攻撃され落城、広門は本拠地の勝尾城に逃れ、鷹取城は放棄された。
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関ヶ原の戦い後に筑前に入った黒田長政は福岡城を築いて本拠地とし、豊前との国境に若松城など6つの城が筑前六端城として配置され、鷹取城もその一つとして取り立てられ大改修が行われた。 鷹取城は福岡県の最高峰である福智山の支峰、標高633メートル、比高約約560メートルという近世城郭では尋常ではない高所に築かれ、城主には黒田氏きっての猛将、「黒田八虎」の一人母里太兵衛友信が任命され、豊前に対し睨みをきかせた。 城内には広い居住空間が存在せず軍事面に特化した造りで、上段の主郭と下段の帯曲輪の二段の曲輪のみという小規模なものだったが、それらを高石垣が巡る総石垣造りとなっていた。 さらに豊前から敵が来襲することを想定し、城への入口は西側に集中し攻城軍が西へ迂回せざるを得ないようにし、東側には畝状竪堀群がひたすらに巡らされるという、国境警備の役割を徹底的に追求した鉄壁の要塞だった。
友信は慶長11年(1606年)に同じく六端城の一つである益富城に移り、鷹取城には手塚光重が入った。 元和元年(1615年)に一国一城令が発布されると、鷹取城は他の六端城とともに廃城となった。
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