下野守護・宇都宮氏の一族である笠間氏が18代350年以上にわたって居城とした城。 承久元年(1219年)、宇都宮頼綱の甥・塩谷時朝が正福寺と徳蔵寺との争いを収めたのち、佐白山に築城した。 時朝は姓を笠間に改め、以後は笠間氏代々の居城となったが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、時の城主笠間綱家が宇都宮国綱に攻められ、笠間氏は滅亡した。 宇都宮氏も慶長2年(1597年)に所領を没収され、笠間城は宇都宮?城主蒲生秀行の支城として蒲生郷成が入った。
続きをクリックで表示
笠間城は谷や断崖を利用して堀や土塁を巡らせた天然の要害だったが、郷成によって近世城郭に改修され、天守曲輪を石垣で形作るなど関東の城では珍しく石垣が多用されるようになった。 関ヶ原の戦い後は笠間藩の藩庁となり松井松平氏、小笠原氏、戸田松平氏、永井氏、浅野氏、井上氏と度々藩主が変わった。 城下には日本三大稲荷の一つである笠間稲荷神社が鎮座しているが、これは元々城下の町屋の一角にあった小社が、寛保3年(1743年)に時の藩主井上正賢による社地・社殿の寄進を受けたことから発展したものである。 延享4年(1747年)、井上氏の後に笠間藩主となった牧野貞通以降は藩主が安定し、以後笠間城は牧野氏の居城となった。 歴代藩主が代々剣術を奨励したことにより唯心一刀流と示現流が隆盛し、幕末には「剣は西の柳河、東の笠間」とうたわれた。 笠間城は明治維新に至るまで牧野氏が9代にわたって城主を務め、明治6年(1873年)の廃城令で廃城処分となった。
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示