日本三大水城の一つである高松城の別名。 以下、高松城の贈り物イベントの台詞を参照。
この城は天正18(1590)年に、生駒親正によって建てられた。 生駒氏は美濃国の生まれだが、羽柴秀吉の配下として活躍し、長篠の戦いや石山御坊攻めなどに参加した歴戦の強者である。 そして、順調に出世して讃岐一国を与えられ、最終的に豊臣三中老の一人にまで出世をしたとされる。 玉藻城という別名は、柿本人麻呂が讃岐国の枕詞として「玉藻よし」と詠んだことから、城周辺の海を玉藻浦と呼んでいたことが由来だと言われる。
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この城は、四国で一番大きな天守を持ち、「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と、民謡にも歌われている。 また、瀬戸内海に面していたため、三重の堀には海水が引き込まれていて、城内から直接船を出すことが出来た。 縄張りを手掛けたのは、秀吉の軍師として有名な武将である黒田孝高(よしたか)だと言われている。
城の二の丸と天守がある本丸の間の堀には、かつて「欄干橋」と呼ばれていた鞘橋という橋が架けられているが、天守に行くためには、この橋を渡るしかない。 つまり、橋を落とすと天守は完全に外部と切り離される構造になっていて、防御拠点としての役割が期待されていたことがよくわかる。 天守は、下の階よりも上の階の面積を大きく取って、ぐるりと外側に張り出しているのが特徴の、唐造(からづくり)と呼ばれる珍しい形をしている。 その外壁は板張りで黒かったが、江戸時代に入ってから、白漆喰で塗り直したと言われる。
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