猪苗代城 のバックアップ(No.1)

現実の城情報 Edit

猪苗代城は亀ヶ城とも呼ばれ、奥州合戦によって会津を与えられた相模国の佐原義連の孫・経連が、鎌倉時代初期に築いたとされているが定かではない。
経連の子孫は代々猪苗代氏を名乗り、地頭としてこの一帯を治めていた。
1589年の摺上原の戦いの直前、猪苗代盛国が伊達政宗に内応し、会津盆地を収めていた同族の蘆名氏を滅亡に追い込むこととなる。
豊臣秀吉の奥州仕置によって、伊達氏が会津を離れると、盛国も猪苗代を離れ、約400年にも及ぶ猪苗代氏の支配が終焉した。
その後、猪苗代城は会津領の重要拠点として江戸幕府に存続が認められ、会津領主の有力家臣が城代として差し置かれていた。
1868年の戊辰戦争の際、母成峠の戦いで勝利した西軍が会津領へ侵入すると、当時の城代・高橋権大夫は城を焼き払って若松へ撤退した。
戊辰戦争後、猪苗代城跡地は荒廃したままだったが、1905年に町内の有志が桜を植樹し、その後公園として整備され、2001年に「猪苗代城跡 附鶴峰城跡」として県の史跡に指定された。

所在地福島県耶麻郡猪苗代町
現存状態本丸、二の郭、帯郭、石垣(穴太積)、土塁、空堀
城郭構造平山城

コメント Edit

最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示

  • 岡左内定俊が城代を勤めた城か⋯殿軍の同僚を助けに向かって伊達政宗に一騎討ちで勝ったり、倹約して貯めた金を主君に戦費として献上したり、同僚に貸した金をチャラにしてやったりと義理堅く情に厚いスゲー奴だが、部屋一面に小判を敷き詰めその上に裸で寝そべる金好きの変人でもあった左内。そんな変態の城、是非実装してもらいたいものだ。 -- 2018-04-04 (水) 23:36:22
  • 姫路城の刑部姫の妹を名乗る妖怪・亀姫の居城としてそっち方面には有名な城 -- 2019-09-12 (木) 06:13:52
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