猪苗代城は亀ヶ城とも呼ばれ、奥州合戦によって会津を与えられた相模国の佐原義連の孫・経連が、鎌倉時代初期に築いたとされているが定かではない。 経連の子孫は代々猪苗代氏を名乗り、地頭としてこの一帯を治めていた。 1589年の摺上原の戦いの直前、猪苗代盛国が伊達政宗に内応し、会津盆地を収めていた同族の蘆名氏を滅亡に追い込むこととなる。 豊臣秀吉の奥州仕置によって、伊達氏が会津を離れると、盛国も猪苗代を離れ、約400年にも及ぶ猪苗代氏の支配が終焉した。 その後、猪苗代城は会津領の重要拠点として江戸幕府に存続が認められ、会津領主の有力家臣が城代として差し置かれていた。 1868年の戊辰戦争の際、母成峠の戦いで勝利した西軍が会津領へ侵入すると、当時の城代・高橋権大夫は城を焼き払って若松へ撤退した。 戊辰戦争後、猪苗代城跡地は荒廃したままだったが、1905年に町内の有志が桜を植樹し、その後公園として整備され、2001年に「猪苗代城跡 附鶴峰城跡」として県の史跡に指定された。
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