登り石垣で山上と山麓の城が一体となった、淡路島支配および大坂湾・播磨灘の制海権掌握の拠点となった城。 正平5年・観応元年(1350年)に淡路島に進出した熊野水軍の一族である安宅氏が、大永6年(1526年)に治興の代で築いた。 治興は三好長慶の弟・冬康を養子とし、洲本城は三好氏の重要拠点となったが、天正9年(1581年)に羽柴秀吉に攻められて降伏し、のちに秀吉は仙石秀久を洲本城に入れた。 天正13年(1585年)に秀久が讃岐へ移ると、賤ヶ岳七本槍の一人・脇坂安治が入り、洲本城の大改修を行った。
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洲本城は標高133メートルの三熊山の山頂に築かれた「上の城」と、山麓の居館である「下の城」に分かれていたが、安治は文禄・慶長の役で得た経験から、朝鮮半島の倭城で多用された登り石垣によって「上の城」と「下の城」を一体化させた。 登り石垣が現存している城は極めて少なく、洲本城の他には彦根城や伊予松山城など数例のみとなっている。
安治は関ヶ原の戦いで東軍に内応して所領を安堵され、引き続き洲本城の改修を進めたが、慶長14年(1609年)に伊予大洲へと転封となり、洲本城は藤堂高虎が預かり改修は中断された。 この大洲への転封の際、安治は自身が築いた洲本城天守を大洲城へと移築したという説があるが、真相は不明。 翌年、姫路藩主の池田輝政が淡路を与えられ、その三男・忠雄は由良城を居城とし、洲本城は廃城となった。 元和元年(1615年)、忠雄は岡山藩主となって洲本藩は廃藩となり、淡路は徳島藩の蜂須賀至鎮に与えられ、筆頭家老の稲田示稙が城代として由良城に入った。
由良城は交通の便が悪く政務をとるのに不向きだったため、示稙は寛永8年(1631年)から4年がかりで洲本城へと移転した。 この移転は武家屋敷や町家、寺院などの移築を伴う大規模なものだったため、「由良引け」と呼ばれる。 新たに本拠地となった洲本城は「下の城」が大改修され、「御殿」と呼ばれるようになった。 この「御殿」を政庁として洲本城は幕末まで稲田氏が徳島藩の城代を務め、明治4年(1871年)に廃城となった。
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