豊臣秀吉の正室・北政所の兄である木下家定の三男・延俊によって築かれた、日出藩木下氏16代250年以上に渡る居城。「日出城」「暘谷城」とも呼ばれ、「暘谷城」の名は3代藩主俊長が古代中国の書『淮南子』から引用したという。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、延俊は城代として入っていた姫路城を徳川家康に献上し、西軍の福知山城攻めなどの功もあって日出3万石に加増・転封され、日出城の築城を開始した。 築城に際しては延俊の義兄にあたる中津城主細川忠興自らが縄張を行い、忠興の家臣・穴太理右衛門が石垣を普請するなど、細川氏から多大な支援を受けた。 日出藩はその立藩から廃藩に至るまで幕府による移封も減封も行われず、2代藩主俊治の代が弟の延次に5000石を分与し2万5000石となり、木下氏の下で明治維新を迎えた。
続きをクリックで表示
日出城は別府湾の北岸、国東半島の杵築沿海道と豊前街道の分岐点に位置し、別府湾でも屈指の良港だった日出港を取り込んだ、水陸交通の要衝を押さえていた。 別府湾に突出した台地の南端に本丸が置かれた。本丸は東西約60メートル、南北約110メートルで、別府湾に面する南以外の三方は堀がめぐらされ、その周囲を二の丸が取り囲んだ。二の丸の東には三の丸が置かれ、さらに北から北東にかけては総構がめぐらされた。
本丸には二重櫓が5基、平櫓が1基と多聞櫓が配置された。海を見下ろす位置には三重の天守が築かれ、日出城の築城を支援した忠興が後に築くことになる小倉城の天守と類似している。天守台は穴太理右衛門が石垣を野面積みで築き、直線的で緩やかな勾配は小倉城と共通点がある。 天守の西には望海櫓、本丸の北西隅には月見櫓、北東には隅櫓が置かれた。本丸は鬼門にあたる北東の直角部分を切り欠いた形となっているが、北東の隅櫓も櫓そのものの角が欠けた全国的にも珍しい形となっており、鬼門櫓とも呼ばれる。 鬼門櫓は日出城が明治7年(1874年)に廃城となってからも城内に残されていたが、大正10年(1921年)の日出尋常小学校の拡張によって中村家に買い取られ移築された。その後平成21年(2009年)に日出町に寄付され、修築された後平成25年(2013年)に現在の本丸北西部に移築された。
コメントはありません。 Comments/日出暘谷城?
コメントはありません。 Comments/日出暘谷城?