摂津滝山城(せっつたきやまじょう)は兵庫県神戸市中央区(摂津国八部郡)にあった山城。瀧山城とも書かれる。 六甲山地南縁にある標高323mの城山に築かれた山城で、鎌倉末期~戦国時代にかけて長きの間軍事上の拠点となった。 歴史上の初出は『正慶乱離志*1』において、赤松円心が拠点としたという「生田の布引の城」とされているため、これ以前には築城されていたと考えられる。 赤松円心は北東摩耶山に築いた摩耶山城とあわせ、当地で六波羅探題の軍勢と戦い、南北朝期には北朝方として活動した赤松氏の拠点として南朝方とも攻防が繰り広げられたことが記録として残っている。
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室町期には赤松氏の勢力圏であったとされ、赤松家臣が城主であったとされるが、一旦廃城となったとも考えられている。 この城が再び表舞台に出てくるのは、三好長慶が京都を抑えた1550年前後になる。 長慶は摂津国西部をおさえる拠点の城とすべく滝山城の改修を家臣松永久秀に命じ、久秀によって現在に残る城の形が完成し城主となった。 その後、三好長慶が死去すると、永禄8年(1565年)将軍足利義輝が三好三人衆らによって殺害される永禄の変を経て、三人衆と久秀の主導権争いから両者の間で武力衝突が始まることとなる。 久秀の居城であった滝山城は三人衆の攻撃対象となり、彼らの命を受けた安宅信康によって攻撃を受けることとなる。 滝山城は堅固な守りを持つ山城であったが、播磨の三人衆方国人が援軍として駆けつけると、水の手を切られ困窮したところを総攻撃され落城した。 かわって三人衆方の篠原長房が城主となるも、織田信長の進出によって三人衆の勢力が衰えると長房は滝山城を離れたという。 天正期には花隈城の支城であったともいうが、荒木村重謀反における花隈城の戦いの時には城山は織田方の拠点として利用されている。 これ以降史料に現れないことから、花隈城落城とともに廃城になったと考えられる。
六甲山地一帯は大きな開発の手が入っていないこともあり、現在でも往時の縄張りを確認することが可能であり、 山頂の主郭一帯やその周囲に曲輪群や、それを防御線として構築する土塁、堀切、石積等が残っている。 }}
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