播磨守護である赤松氏の一族・小寺氏の居城で、別所氏の三木城、三木氏の英賀城とともに播磨三大城>と称される。 永正16年(1519年)に小寺政隆が築いたとされるが、『九条家文書』によるとそれ以前の明応4年(1495年)には守護の段銭や諸公事徴収のために御着に納所があり、『蔭凉軒日録』には小寺氏が段銭奉行であったと記されており、小寺氏が段銭奉行所を城郭化したとも考えられている。 政隆はそれまでの居城だった姫路城に子の則職を入れて御着城を居城としたが、享禄3年(1530年)に備前の浦上村宗が播磨へと侵攻、御着城は落城し政隆は自害した。 翌年に村宗が大物崩れで討死すると則職が御着城主となり、姫路城は支城とされ黒田氏が城代となった。 則職の子・政職の代で小寺氏は播磨へと侵攻してきた織田氏と対立し、御着城は天正8年(1580年)に羽柴秀吉に攻撃され落城した。播磨を平定した秀吉は翌年に播磨の城割を行い、御着城もその対象になったとされるが、城割の実効性には疑問もあり正確な廃城時期は不明となっている。
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御着城は現在、その城跡の中心部が国道2号線によって分断され、北側は姫路市役所の東出張所、南側は城主の小寺氏を祀る祠となる。東出張所とその東隣のグラウンドの北側から東側にかけては高さ2~3メートルの段差があり、城を区画した土塁の痕跡となっている。 宝暦5年(1755年)に描かれた絵図では、東出張所と祠を「本丸」、グラウンドを「二の丸」とし、本丸から御着集落へ続く内堀が描かれ、内堀の東端では山陽道の道筋に合わせて屈曲している。 絵図によると御着城の西側から南側を流れる天川と、北側と東側を区画する外堀によって城下全域を取り囲む総構だったという。播磨では神吉城や志方城にも総構が存在したとされ、播磨における城下町の発達がうかがえる。 また『芥田家文書』に記される「御着西市」と「佐土市」は総構の外の山陽道に位置するともされ、織田氏の岐阜や六角氏の石寺などと共通する二元的な城下町であったとも考えられている。
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