鹿児島県姶良市。 鹿児島県中央部に位置しするこの地に、この城は存在していた。 瓜生野城を前身とする建昌城である。 築城年代は享徳年間とされ、島津氏9代当主・忠国の弟である季久によって築かれたとされる。 季久は、平山城?主・平山武豊を討ち帖佐郷を領地に加え、そこに前身となる瓜野野城を築き居城とした。
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文明18年(1486年)、11代当主・島津忠昌の日向伊東氏攻めの際、李久の子・忠廉は従軍し日向国飫肥城へ移ることとなる。 このため瓜生野城は、一時廃城となった。 関ケ原合戦後、17代当主・義弘は徳川家に対抗するために城を改修し防備を強化した。 建昌城という名前は、義弘の時代に明の頴川三官が、中国の建昌城に似ていると言ったことから付けられたとされる。 江戸時代、初代薩摩藩主・家久は、鹿児島城に代わり、建昌城を薩摩藩の本城にしようとするも実現されなかった。 昭和40年代になると、城郭跡の西側に育雛場が建設され、この辺りの城跡は壊されてしまう。 さらに昭和47年(1972年)には、九州自動車道の建設工事で山を切り崩した土砂を使用する計画が立ったが、県文化財保護委員会の働きにより計画は中止となった。
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