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国府台城 のバックアップ(No.1)
現実の城情報
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| 所在地 | 千葉県市川市国府台 |
| 現存状態 | 土塁、物見台、堀 |
| 城郭構造 | 連郭式平山城 |
国府台合戦(クリックで表示)
第一次国府台合戦は天文7(1538)年に起きた。古河公方と古河公方から分かれた小弓公方との戦いであり、里見・北条はそれへの援軍であった。
従来この時の小弓公方足利義明の目標は鎌倉侵攻とされたが、現在は古河公方の重要拠点関宿城への攻撃を企図し太日川を抑える動きとされる。
足利義明は里見義堯・真里谷信応など安房・上総勢1万を率いて国府台に着陣。対する北条氏綱・氏康以下2万の北条勢は葛西城に入った。
北条勢は大藤金石斎の進言により、関宿方面への小弓勢の北上を防ぐため太日川を敵前渡河。国府台の北・相模台で小弓勢と激突する。
緒戦こそ小弓勢の勢いが勝ったが次第に数に勝る北条勢が押し返し、足利義明の弟基頼・息子義純が討死すると義明も突撃するが討ち死にした。
実はこの時渡河中を狙うべしと里見義堯が主張したが足利義明に却下され、ただでさえ低かった里見の士気は更に低下した。
里見勢は義明戦死と聞くや否や一戦も交えることなく戦線を離脱、温存した兵力で小弓公方が滅んで空白となった上総に侵攻して支配地を広げた。
勝った北条方は下総千葉氏への影響力を強めることとなったが、里見も千葉氏に誘いをかけており千葉家中は動揺することになる。
第二次国府台合戦は永禄7(1564)年正月に起きた。第一次合戦の後国府台には千葉氏重臣高城胤吉・胤辰が入り、北条との連絡線を形成した。
前年の永禄6年1月、北条氏康と武田信玄に武蔵松山城を攻められた上杉謙信から援軍を求められ、里見義弘が国府台で北条・千葉勢と戦った。
この戦いが永禄7年の合戦と混同され、天文の合戦とあわせて第二次合戦と呼ばれた。しかし実際には二年で二回戦いがあったとされる。
ここでは通説どおり永禄7年の合戦を第二次と呼ぶが、これは太田資正の岩槻城支援に出兵した里見勢とこれを阻止する北条勢の合戦だった。
この時里見勢は岩槻城に搬入する*3兵糧を市川で調達しようとしたが難航、これを知った千葉氏・高城氏が北条の出兵を要請した。
北条勢は第一次合戦のときと同じように江戸城から葛西城に展開し、里見義弘はこれを排除するため国府台城周辺に布陣した。
北条家の陣容は氏康、氏政・氏照・氏邦の兄弟に加え北条綱重(幻庵の子)、北条綱成一門、伊勢貞運などの一門衆。更に松田憲秀、大道寺、笠原、多目、清水などの重臣、江戸衆の遠山綱景、富永康景(直勝)、太田康資など主力・精鋭が揃っていた。
しかしここで江戸衆の太田康資が離反、太田資正を頼って里見側に寝返った。北条家中での扱いに不満を抱いていたとされる。
この離反に責任を感じたか、遠山綱景、富永康景(二人とも江戸衆)は戦備が整う前に里見勢に突撃したが揃って戦死してしまう。
この時遠山を討ったのは離反した康資本人であったと言われるが定かでない。初戦の勝利に里見義弘は陣中で酒を振る舞ったという。
しかしこの夜の間に北条勢は態勢を立て直し、密かに北条綱成・松田憲秀が渡河。氏康もこれに続き、夜明けと共に国府台の里見陣を攻めた。さらに氏政以下の本隊も呼応して川を押し渡り国府台に突入する。
挟撃された形になった里見勢も幾度か押し返すなど奮戦するものの、正木信茂・安西実元といった重臣を失い大敗を喫して敗走した。
北条家はこの戦いに勝ったことで下総を完全に影響下に置き上総にも進出する。しかし敗れた里見義尭・義弘親子も抗戦しつづけた。
戦前に離反した太田康資は北条家に戻れず下総に落ち延び、以降の消息は不詳(資正に従ったという説も有り)。資正も下総で潜伏して数ヵ月後岩槻に帰るが、息子氏資によって岩槻城を追われ常陸の佐竹に身を寄せることになった。
夜泣き石(クリックで表示)
第二次国府台合戦で討たれた里見一門の里見広次(弘次とも)の娘が父の霊を弔うために国府台までやってきた。
しかしあまりに悲惨な戦場の光景に悲しみ、この大石にもたれて泣き続け、悲嘆のあまりにやがてそのまま死んでしまった。
その後この石から夜毎に泣き声が聞こえるようになり夜泣き石と呼ばれたが、後に通りがかった武士が厚く供養をすると泣き声は止んだという。
なお国府台合戦で討たれた里見広次は里見義弘の甥とされ、この戦いが初陣で15歳であったと記録されているため、娘がいた可能性は低い。
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