北白川城 のバックアップ(No.1)
現実の城情報
京と近江をつなぐ交通の要衝に位置し、京を防衛する拠点として用いられた城。時代によって「勝軍山城」や「東山新城」とも呼ばれるが、その区分は明確でない。戦国時代の京で戦乱が起こると度々使用され、近畿地方の中世城郭では史料が多い城の一つ。 続きをクリックで表示 一方で高国を破った晴元は室町幕府第12代将軍足利義晴と連携したが、高国の養子の氏綱が河内・和泉で活動し、また晴元と義晴も不和になるなど緊張状態が続いた。そのなかで天文15年(1546年)11月に義晴は「東山白川山上」に「御城」を構えた。 長慶が死去すると三好政権は動揺し、この機に乗じた織田信長が永禄11年(1568年)9月に足利義昭を奉じて京へ入り、この時に「勝軍城」も義昭の山城として機能していたとされる。 北白川城は比叡山から如意ヶ嶽へと続く南北に伸びる山地から派生した西尾根の突端、比約200メートルの瓜生山(勝軍山)に立地する。 このように北白川城は複数の山城が並立するような構造で、状況に応じて使用する範囲が変わったと考えられる。戦国時代にも範囲を分けて考えようとしたことはうかがえ、「勝軍之下之山」「勝軍之上之山」「東山新城 旧武田城也」などの表現がある。
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