松江城主堀尾忠晴によって、丹波亀山城と間違えられて天守を解体されてしまったことで知られる城。 文永2年(1265年)に関実忠によって築かれた城が始まりで、当時の城は伊勢亀山城よりも西に位置し、亀山古城と呼ばれる。 関氏は伊勢の有力豪族として300年以上に渡ってこの地を支配し、居城ものちに伊勢亀山城が築かれる場所へ移っていった。 元亀4年(1573年)、関盛信は織田信長に敗れて城を追われたが、のちに許されて城主に復帰し、蒲生氏郷の家臣となった。 天正18年(1590年)に氏郷が陸奥に移ると盛信もこれに従い、伊勢亀山城には岡本良勝が入り本丸や二の丸を改修し、現在見られる伊勢亀山城の原型が整えられた。
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伊勢亀山城は伊勢湾を望む標高約80メートルの台地上に築かれ、外郭は東海道に沿って直線的なのに対し、主郭部は自然地形を活かした複雑で曲線的な縄張となっている。 関ヶ原の戦い後に関盛信の子・一政が入って関氏が復帰し、伊勢亀山藩が成立したが藩主家は安定しなかった。 そして三宅氏の時代、伊勢亀山城を災難が襲った。寛永9年(1632年)、幕府は堀尾忠晴に「丹波」亀山城の天守を破却するよう命じたのだが、忠晴は「伊勢」亀山城と間違え天守を解体してしまったのである。 当時の城主三宅康盛はその頃江戸住まいで、父親の康信は死去したばかりと、藩主が不在のなかで起こった事件だった。
寛永13年(1636年)に本多俊次が城主となると伊勢亀山城の大改修を行い、天守の代用として三重櫓が築かれた。 また約2,600メートルに渡って築かれた白亜の土塀が粉蝶(モンシロチョウ)を連想させることから、伊勢亀山城は「粉蝶城」とも呼ばれるようになった。 藩主家は相変わらず安定しなかったが、延享元年(1744年)に石川総慶が入り、以後明治まで石川氏11代の居城となった。 明治6年(1873年)の廃城令で伊勢亀山城の建物は取り壊されたが、破壊を免れた多聞櫓は当時の位置のまま残る三重県で唯一の中核的城郭建築であり、また現存する多聞櫓としては全国的にも希少な存在となっている。
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