新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流である関東の名門・佐竹氏の有力氏族の一つ、佐竹北家の本拠地。 佐竹氏は平安時代から常陸の領主として馬坂城・常陸太田城?を居城とし、戦国時代には分家の東家・西家・南家・北家が本家を支えていた。 このうち北家の成立は、佐竹氏の庶家である山入家が佐竹本家と約百年間に渡って抗争を繰り広げた山入の乱をきっかけとする。 佐竹本家は山入家に対抗するために久米城を取り立て、佐竹氏15代当主・義舜の弟である義信が久米城に入り、久米城が常陸太田城の北方に位置したことから「北殿」と称され、以後佐竹北家として本家を支えることとなった。
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久米城は山田川東岸の比高約70メートルの丘陵に位置し、久米集落の北側、鹿島神社のある付近を中心に北・東側から丘陵を集落で囲むように築かれている。 城は大きく4つの部分に分かれ、鹿島神社付近の山に築かれた「東の城」、そこから西北に並ぶ小山に築かれた「西の城」、東の城から南に伸びる尾根上に設けられた「南の出城」、「城下」にあたる久米集落からなる。 このうち中心となるのが東の城と西の城で、城域は2つの山を取り込んだ形となって曲輪群が設けられ、要所に堀切や竪堀が巡らされ、南の出城には二重堀切や横堀も見られる。 城下は「根古屋」「上宿」「中宿」「下宿」からなり、城の南麓に位置する根古屋には城主の屋敷が、根古屋とは谷で隔たれた上宿・中宿には家臣層、下宿には商工業者が居住していたとされ、久米城では階層差が存在していたと考えられる。 佐竹氏の本城である常陸太田城が往時の姿をほぼ失っているため、久米城は佐竹氏の城郭がどのようなものであったかを伝える貴重な事例となっている。
佐竹北家は久米城を代々の居城としていたが、関ヶ原の戦い後に佐竹氏が出羽久保田へ転封になるとこれに従い、久米城は廃城になったとされる。 のちに佐竹北家は角館に入って明治維新に至っており、現在の秋田県知事である佐竹敬久氏は佐竹北家の末裔である。
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