ドイツ南部オーストリアとの国境沿い、標高1268mのアルプス山脈沿いにあるドイツ最高峰の城である。 始まりはチロル伯(オーストリアのしっぽから北イタリアを領してた)でゲルツ家のマインハルト2世によって1260年~1270年頃に築城された。 この時代、神聖ローマ帝国は大空位時代に移り諸侯が入り乱れ帝国の利権を貪り合っていた。 チロル領も例に漏れずバイエルン公国と領土問題で即発状態であったため、これに備えバイエルン公国領の目前に作られた境目の城である。 初名は地名を採って「プフロンテン城」だった。プフロンテンは「正面」で「アルプス山脈の目の前」という意味。
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城を建てたもののアルプス山脈に阻まれ遠路不便なため、1290年同じくバイエルン公国と敵対していたアウグスブルク司教へと譲渡された。 最初の頃は役人も常駐し守兵もいたが、こちらも本拠地から遠い領土の境目にあり、勝手が悪くかつ建設当時は温暖だった気候も中世の小氷期に入ると寒冷になり、冬の間は麓の下館に移っていた。 次第に下館に滞在する時間が増え、傷んでも修復が疎かになり放置されていった。 1341年ルートヴィヒ5世バイエルン公がチロル伯に就き、チロル伯・アウグスブルク司教とバイエルン公国の敵対関係が解消されていったのも大きい。 ファルケンシュタイン(Falken(ハヤブサ)stein(城))の名はその14世紀から見られるが、それは放置され「ハヤブサ*1しか住まなくなった城」の意味合いかもしれない。
だが1363年マインハルト3世チロル伯・バイエルン公が子を残さずに死去すると、ゲルツ家の後継者と称するハプスブルク家とバイエルンの間で再び領土紛争が勃発する。 チロル領は木材・岩塩が豊富に採れ、ドイツ=イタリア間の交易の拠点でさらに銀山もあり実入りの良い土地柄であるため、ハプスブルク家が割り入ってきたのであった。 チロル伯を継いだハプスブルク家とバイエルン公国との抗争は、アウグスブルク司教も巻き込みながら100年以上続き、1487年ようやく解消された。 100年もの間、城は修復され続け和解後も何とか1582年までは機能していたが、1595年には廃墟となっていたとある。 最後は1646年、30年戦争でスウェーデン・フランス連合軍がバイエルンに侵攻してくると、チロル伯のフェルディナント・カール*2は城が敵軍に占拠される事を恐れ破壊し火を放った。
このまま終わりかと思われていたが1つの光明が差し込む。 1803年、アウグスブルク司教領が世俗化され城跡もバイエルン王国*3の物となった。 1883年ルートヴィヒ2世は中世の強盗騎士が住むような作品を造ろうと、ノイシュヴァンシュタイン城をデザインした画家に原案を任せたが、後任が国の財政難を鑑み規模の縮小案を出すと解任されてしまう。 3人目がようやくフランクフルトのエッシェンハイマータワーを模倣しキープに据えた案が採用された。 城へ至る道と水道管が引かれたが財政難が解決することは無く、1886年ルートヴィヒ2世が死去すると計画は中止され、後に残ったのは廃墟になった中世の城跡だけだった。 現在は私有地となっているが、1920年代、1960年代と1999年から2001年に崩壊しない程度の修復がされ、2005年には展望台が設置。 2008年には1897年に建てられてたホテルに博物館が作られ、ルートヴィヒ2世の幻想となった城に思いを巡らせた人々が訪れている。
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