神聖ローマ帝国の実質的な帝都として機能した、帝国内で最大かつ最重要の帝国都市の一つだったニュルンベルクを象徴する城で、ニュルンベルクは「岩山」を意味する。 ニュルンベルク城の歴史は、現在のニュルンベルク旧市街の北端、砂岩の台地上に築かれたことに始まり、その城下に都市が形成・拡大されていった。史料上の初見は1050年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世黒王が宮廷会議を開いた時のものだが、発掘調査によって古い時代の遺構が発見されており、城の建設もこれ以前には行われていたと考えられる。 ハインリヒ3世の子ハインリヒ4世はニュルンベルクとその周辺に高等裁判所管区と行政管区を設けたが、ローマ教皇グレゴリウス7世との叙任権闘争の中で子のハインリヒ5世と対立し、ニュルンベルク城でも攻防戦が展開された。 ハインリヒ4世は退位させられ、ハインリヒ5世は子ができずに死去したためザリエル朝は断絶した。その遺領は甥であるホーエンシュタウフェン家のフリードリヒとコンラートに与えられ、ニュルンベルク城もその中に含まれていたが、新たに皇帝となったズップリンブルク家のロタール3世に包囲され、1130年に奪取された。 ロタール3世は1137年に死去し、ホーエンシュタウフェン家のコンラートがローマ王に選出されて実質的に神聖ローマ皇帝コンラート3世として即位し、ホーエンシュタウフェン朝が開かれた。このホーエンシュタウフェン朝の時代にニュルンベルクは本格的に発展していくことになる。
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ニュルンベルク城はその頃ラープス家が代官として支配しており、コンラート3世はラープス家にニュルンベルク城伯に地位を与えた。このため最初に築かれた城は「城伯の城(ブルクグラーフェンブルク)」と呼ばれる。一方でコンラート3世は城伯の城の西側に新城を築いて自身の居城とし、こちらは「皇帝の城(カイザーブルク)」と呼ばれる。 ホーエンシュタウフェン朝は帝国領国政策と呼ばれる国王支配領域の統一的な支配を進め、ニュルンベルクもその重要都市の一つとして度々皇帝が所在し帝国議会も置かれたため、実質的な都として機能した。 フリードリヒ2世の時代の1219年には大特許状によってニュルンベルクは帝国自由都市となり、諸特権を得たニュルンベルクは南ドイツではアウクスブルクと並ぶ遠隔地商業の中心地として繁栄することになる。
1254年のホーエンシュタウフェン朝の断絶後に神聖ローマ帝国は大空位時代となり、皇帝権の弱体化によってニュルンベルクは相対的に自立性を高めていった。 この頃のニュルンベルク城伯の地位はラープス家の断絶によって1192年からツォレルン家(ホーエンツォレルン家)に渡ってその地位を確立させており、1273年にローマ王となり大空位時代を終わらせたハプスブルク家のルドルフ1世はニュルンベルク城伯のツォレルン家による世襲を認めざるを得なかった。 ハプスブルク家は本拠地をオーストリアに置いたためニュルンベルクはますます自立性を高めることとなり、「皇帝の城」の防衛もニュルンベルクの町に委ねられた。 こうして都市としてのニュルンベルクが発展していき、強力な城壁で守られた城郭都市が形成されていった。一方で「城伯の城」は市民にとっては圧政の象徴となり、1317年には「城伯の城」の東斜面に望楼を建てて城内を監視するなど、両者の対立が続いた。
ルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝カール4世の時代、ニュルンベルクは再び重要都市として機能するようになった。カール4世はプラハを都とし、これと並んでニュルンベルクとフランクフルト・アム・マインを重要拠点に位置づけたのである。また1356年に発布した金印勅書では、神聖ローマ皇帝は最初の帝国議会をニュルンベルクで開くことを定めている。 カール4世はまた帝冠や聖槍、帝国十字架、帝国剣などの帝国権標を典礼の形で崇拝するよう奨励し、1423年に神聖ローマ皇帝ジギスムントがニュルンベルクに帝国権標を移し、復活祭の時期に民衆に公開されていた。 ニュルンベルクの都市はカール4世からも諸特権を与えられますます繁栄するようになったが、ニュルンベルク城伯のホーエンツォレルン家との対立も激化するようになり、武力衝突が繰り返された。 1420年にはバイエルン=インゴルシュタット公ルートヴィヒ7世がニュルンベルク市民と結んで「城伯の城」を破壊した。ニュルンベルク城伯フリードリヒ6世はブランデンブルク辺境伯として東方での活動を中心としていたため「城伯の城」を再建しようとはせず、1427年に市民に売却した。
長年の紛争に終止符が打たれたニュルンベルクは1470年から1530年にかけて最盛期を迎え、都市の領域も拡張されて帝国最大の帝国都市となった。交易の重要拠点として経済的発展も頂点を迎えたニュルンベルクがもたらす富は「帝国の宝箱」と称されるほどだった。 またニュルンベルクはドイツ・ルネサンスの中心地にもなり、マイスタージンガーのハンス・ザックスや現存最古の地球儀を作ったマルティン・ベハイム、ドイツを代表する画家の一人アルブレヒト・デューラーなどが活動した。 このように都市としての繁栄が進む一方で、皇帝の街としての重要性は低下していき、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世は「皇帝の城」を大規模に改修し、マクシミリアン1世も即位前に半年間ほど滞在したが、マクシミリアン1世を最後に皇帝が最初の帝国議会をニュルンベルクで行うことはなくなった。
大航海時代の新航路開拓によって商業革命が起こり、商業の中心地が地中海から大西洋に移動するとニュルンベルクの繁栄も終わりを告げた。1525年に宗教改革を受け入れたことで神聖ローマ皇帝との関係も崩れていき、ハプスブルク家がオーストリア、ボヘミア、ハンガリーの支配を重視するようになったため、ニュルンベルクの重要性は低下していった。 三十年戦争ではスウェーデン王グスタフ・アドルフによって占領され、皇帝軍の傭兵隊長ヴァレンシュタインによって包囲されたが、巨大な城郭都市であるニュルンベルクはこの包囲を耐え抜いた。しかし長年に渡る戦乱や疫病の流行などによってニュルンベルクは荒廃した。 三十年戦争の終結後にニュルンベルク城は軍事的重要性を失い、ニュルンベルクの都市も戦争の打撃から立ち直れず、1806年にナポレオンに占領されバイエルン王国に併合された時には、最盛期には5万人近くあった人口が25,000人ほどに減少していたという。このバイエルン王国の時代、バイエルン王によってニュルンベルク城の修復が行われている。 ナチス政権時代にニュルンベルクはその象徴的な都市となったが、そのために連合国の最優先攻撃目標となり、1945年の空爆によってニュルンベルク城は多くの建造物を焼失した。 戦後、ニュルンベルク城を含む旧市街は再建が進められ、城壁に囲まれた中世の雰囲気を残す町並みが復元された。2010年には日本城郭協会によって「城郭都市ニュルンベルク」としてヨーロッパ100名城に選定された。
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