ニュルンベルク城 のバックアップ(No.1)
現実の城情報
神聖ローマ帝国の実質的な帝都として機能した、帝国内で最大かつ最重要の帝国都市の一つだったニュルンベルクを象徴する城で、ニュルンベルクは「岩山」を意味する。 続きをクリックで表示 ニュルンベルク城はその頃ラープス家が代官として支配しており、コンラート3世はラープス家にニュルンベルク城伯に地位を与えた。このため最初に築かれた城は「城伯の城(ブルクグラーフェンブルク)」と呼ばれる。一方でコンラート3世は城伯の城の西側に新城を築いて自身の居城とし、こちらは「皇帝の城(カイザーブルク)」と呼ばれる。 1254年のホーエンシュタウフェン朝の断絶後に神聖ローマ帝国は大空位時代となり、皇帝権の弱体化によってニュルンベルクは相対的に自立性を高めていった。 ルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝カール4世の時代、ニュルンベルクは再び重要都市として機能するようになった。カール4世はプラハを都とし、これと並んでニュルンベルクとフランクフルト・アム・マインを重要拠点に位置づけたのである。また1356年に発布した金印勅書では、神聖ローマ皇帝は最初の帝国議会をニュルンベルクで開くことを定めている。 長年の紛争に終止符が打たれたニュルンベルクは1470年から1530年にかけて最盛期を迎え、都市の領域も拡張されて帝国最大の帝国都市となった。交易の重要拠点として経済的発展も頂点を迎えたニュルンベルクがもたらす富は「帝国の宝箱」と称されるほどだった。 大航海時代の新航路開拓によって商業革命が起こり、商業の中心地が地中海から大西洋に移動するとニュルンベルクの繁栄も終わりを告げた。1525年に宗教改革を受け入れたことで神聖ローマ皇帝との関係も崩れていき、ハプスブルク家がオーストリア、ボヘミア、ハンガリーの支配を重視するようになったため、ニュルンベルクの重要性は低下していった。
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