首都ブタペストから西南西に約130km、標高250m、比高差約60mの丘の上に建つ、ハンガリーの中世城郭としては国内最大規模である。 モンゴルにハンガリーを占領されるも何とか回復したアールパード朝のベーラ4世王は、国内の防衛強化のためヴェスプレーム司教に命じ1260年頃完成した。 だが1285年のモンゴル侵攻ではハンガリー軍はモンゴルに対し優勢に立ち、撃退することができた。 これにより対モンゴルのために築城された城は用を成さなくなり、さらに1301年にはアールパード朝が断絶するとハンガリー王空位時代となり地元の領主によって不法に占拠され荒廃していった。 1308年にイタリアのアンジュー家からカーロイ1世を招き王権を回復させると、1318年不法占拠されていた城を奪還し改築を行い再びヴェスプレーム司教に渡された。
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1440年、アルベルト王*1が急死するとポーランド王であったウラースロー1世は乞われてハンガリー王に就いたが、これにアルベルトの王妃エリーザベト*2が反対したため戦端が開かれた。 王妃エリーザベトは兵を雇うため、ハンガリー王冠を担保に亡夫の又従弟で後に神聖ローマ帝国皇帝となる、ハプスブルク家のフリードリヒ3世から資金援助を受ける。 対するウラースロー1世側は教皇から支援を受けたので、シュメグ城を有するヴェスプレーム司教はウラースロー1世側に就いた。 城もエリーザベト軍によって数度に亘って攻められるが陥とされる事はなく、1年半続いた内戦はオスマン軍の外的脅威により終わった。 戦後、不落の力を見せた城は一大拠点とするべく大々的な改築が行われ、単郭式だった城は城壁で囲まれ、囲郭式へと変貌した。また塔や銃眼など城内設備の更新も行われた。
1526年ハンガリーはオスマン帝国と戦うも王が戦死し大敗北を喫すると、オスマン帝国は首都ブダを含め、ハンガリーの大半を制圧。 王が死去したので、神聖ローマ帝国皇帝であったハプスブルク家に王位を渡しヴェスプレーム司教領も、その保護下に入った。 それでもオスマン帝国の侵攻は止まらず、1552年にヴェスプレーム市を占領すると司教はシュメグ城に逃れたので、シュメグ城が司教城となった。 ここからさらに修復と改築が進められ、現在に残る形状となる。 1699年にオスマン帝国がハンガリーから去るまで、数度攻められるが城は1度も陥落することはなく「ハンガリーの抵抗の象徴」として取り上げられる事もあった。
だが司教がシュメグからヴェスプレーム市に戻ると、「ハンガリーの抵抗の象徴」が却って災いを齎す。 1705年ラーコーツィの解放戦争で「抵抗の象徴」として城が解放軍に占領されてしまい、1709年自主退城するまで籠城を続けた。 1713年、カール6世ハンガリー王兼神聖ローマ帝国皇帝は王に就任した手始めとして、力の誇示のため「抵抗の象徴」であったシュメグ城を徹底的に破壊の末炎上させた。 廃墟となった城は石切場となり、街の開発や教会建築の素材となった。
1957年になってようやく発掘・調査が始まり、郡から市へと所有権が移り1989年から修復工事が始まり、2016年国家プロジェクトにより2億フォリント*3かけて復元された。 なおご多分に漏れず拷問部屋が必要以上に再現されている。
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