「フランケンの王冠」と称されるドイツ最大級の城の一つで、コーブルクの市街地から離れた丘の上に築かれ、本格的な多重城壁を備えた堅固で広大な城であることから、Veste(城塞)で呼ばれる。 文献上の初見は1225年で、この頃には初期の城塞が築かれていたとされる。当初は広い敷地の中に内郭と外郭が設けられ、現在の内郭にあたる部分にベルクフリート(主城塔)と居住棟を置き、内外郭の全周を城壁で囲んだアーリーイングリッシュ様式で、城門は外郭西端の「青の塔」に接して開かれていた。 ベルクフリートは円形で、居住棟はベルクフリートの北側に城壁に接する形で建てられた「領主の館」だが、これらは建替えあるいは改修されたため当時のままでは残っていない。 内郭の建物としては「領主の館」が1500年に改修、「婦人の館」が1501~1508年に建てられ、外郭の「高所の家」が1450年の建造と、現在コーブルク城で見られるものは15世紀遺構のものが多い。 この15世紀はコーブルクにほど近いボヘミアでフス戦争が起こり、そのためにコーブルク城が拡張・強化された時代であり、ザクセン選帝侯がコーブルクを領するようになった時代でもあった。
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16世紀になるとドイツではルターによる宗教改革が始まり、プロテスタントを受容しルターを匿ったことで知られるザクセン選帝侯フリードリヒ3世賢公以降、ザクセン選帝侯領ではプロテスタントが広まり、コーブルクでも1530年4月~10月にかけてルターが滞在している。 またドイツではカトリックとプロテスタントとの間で1546年~1547年にかけてシュマルカルデン戦争が起こり、この戦争後コーブルク城ではさらなる拡張・強化が行われた。 すでに1533年に構築されていた東端の「高所の稜堡」は1570年に増強され、西端に突出した五角形の「熊の稜堡」もこの頃に設けられた。南面では城壁南東部の城門が新たな正門となり、これを挟む形で左に「ラウテンクランツ稜堡」、右に「ブンター・レーベ稜堡」が城門を守るように配置された。 城壁もまた整備され、外城壁は稜堡を取り込む形で全周にめぐらされ、その内側に内城壁がめぐり、場所によっては二重あるいは三重になる場所もあった。城壁は丘陵の斜面上に構築されているため、外城壁が最も低く内城壁は内側に行くほど高くなっている。 1618年に始まる三十年戦争では、ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世はプロテスタントとしてスウェーデンと同盟し神聖ローマ皇帝フェルディナント2世と対立したため、コーブルク城は皇帝軍と皇帝側についたバイエルン公の軍勢に包囲されるが、これを撃退した。
その後もコーブルク城は改修が続けられ、1700年頃にはほぼ完了したが、その軍事的重要性は次第に低下していった。 1803年~1838年にかけて外城壁が崩されて堀は埋められ、居住施設の改装が行われた。また、木造の跳ね橋だった城門に通じる橋は、1859年に石造のアーチ橋に替えられた。 こうして軍事的要素が薄れていったコーブルク城だが、1909年~1924年にかけて中世の姿を復元するために修復工事が行われ、現在はコーブルク・フェステ文化財博物館として一般に公開されている。 2010年には日本城郭協会によってヨーロッパ100名城に選定された。
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