陸奥小浜城 のバックアップの現在との差分(No.8)
現実の城情報陸奥小浜城は陸奥国塩松地方において下克上と大勢力の間での紆余曲折を経た国人大内氏の居城であった平山城である。 続きをクリックで表示 大内氏は塩松石橋氏の重臣であったが、塩松氏が伊達氏や蘆名氏、田村氏と行った周辺勢力の中で勢力を失うと、天文19(1550)年大内義綱は主君塩松尚義をその居城塩松城?に幽閉、実権を奪った。 蘆名家を頼った定綱であるが、その後蘆名氏では佐竹氏から義広が養子として入り、結果蘆名家中で宿老と佐竹氏から入った家臣団が対立するなど家中が不穏になり、外様である彼の立場はまたもや微妙なものになっていた。 以降の定綱は一貫して伊達政宗に仕えその信用を得、子孫は仙台藩において一族(仙台藩における階級で一門・一家・準一家に次ぐ4番目の地位)の地位を得、大身として続いた。 定綱は本領復帰とはならなかったものの、陸奥国伊達郡や出羽国長井郡など、伊達本領に近い一帯に所領を与えられた。 以降の定綱は摺上原の戦い、大崎・葛西一揆でも活躍し、政宗が岩出山城に移った天正19(1591)年には前沢城?主となり、文禄・慶長の役に参加、関ヶ原の戦いのおりには京都の伊達家屋敷の留守居役を務めるなど政宗から非常に信頼されるようになった。 この功績を評され、子の重綱の代からは仙台藩において一族(仙台藩における階級で一門・一家・準一家に次ぐ4番目の地位で要所に配される)の地位を得、その後寛永21(1644)年登米郡西郡に移され、有力家臣の一角として幕末まで代を重ねた。 このように、大勢力の間で翻弄されながらも強かに生き抜き家を長らえさせた大内定綱は、時代の勝者の一人であると言ってもよいであろう。 現在の小浜城の跡地は本丸跡に蒲生時代とされる石垣と大内氏の子孫により建てられた碑がある他、発掘調査では7棟の建築物の跡が見つかっている。
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