宇津峰城 のバックアップの現在との差分(No.3)
現実の城情報宇津峰城(うづみねじょう)は福島県郡山市・須賀川市(陸奥国田村郡・石川郡)にあった、南北朝時代において南朝方の拠点となった城。別名として星ヶ城や雲水峰がある。 続きをクリックで表示 田村庄司一族は一貫して南朝方として活動したものの、東北の南朝方は衰退の一途を辿り、貞和2年(1346年)に霊山城などとともに北朝方の攻撃で落城したとされる。 だがそれも長くは続かず、観応の擾乱が収束に向かうと吉良貞家が再度北朝方をまとめ攻勢に転じたため、南朝方は多賀城を再度失陥するなどみるみる勢いを失った。 この状況に南朝方の北畠顕信と後醍醐天皇の孫守永親王(宇津峰宮)は宇津峰城に立てこもり、田村庄司一族の支援も受けながら抵抗を続けた。 しかし、再度情勢を回復することはかなわず、文和2年(1353年)宇津峰城は吉良貞家によって落城。北畠顕信と守永親王は出羽を経て北奥羽へ逃れ、東北南朝方はこれをもって壊滅した。 だがそれも長くは続かず、南朝勢が関東に向け兵を陸奥南部に動かした隙をついて再度北朝方をまとめた吉良貞家が攻勢に転じたため、南朝方は多賀城を再度失陥するなどみるみる勢いを失った。 北へ引き返すことは難しいと判断した南朝方の北畠顕信と後醍醐天皇の孫守永親王(宇津峰宮)は宇津峰城に立てこもり、田村庄司一族の支援も受けながら抵抗を続けた。 しかし、再度情勢を回復することはかなわず、文和2年(1353年)宇津峰城は吉良貞家によって落城。北畠顕信と守永親王は出羽を経て北奥羽へ逃れたとされ、東北南朝方はこれをもって壊滅した。 田村庄司一族も北朝に降伏し当地にとどまったものの、先に北朝に転じ田村荘の検断職を認められていた白河結城氏により圧迫をうけるようになり、逼迫していった。 この中で田村庄司一族は応永年間に小山の乱と関連して反鎌倉府勢力とともに蜂起した(田村庄司の乱)。結果、鎌倉府によって討伐を受け田村庄司一族は歴史の表舞台から姿を消し、田村荘は三春田村氏が支配するところとなっていった。 城跡地は昭和6年(1931年)に国史跡となっている。
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