桑折西山城 のバックアップの現在との差分(No.2)
現実の城情報鎌倉時代に伊達氏初代の常陸入道念西(伊達朝宗)によって築かれとされ、応永7年(1400年)に第九代政宗が鎌倉府に反旗を翻して立て籠もった赤館が桑折西山城とも考えられている。 本格的な築城は伊達稙宗の代で、仙台藩が編纂した『伊達正統世辞考』には天文元年(1532年)に梁川城から亀岡八幡宮が西山に遷されたこをが記されており、この頃に桑折西山城に本拠を移したとされる。また天文5年(1536年)に制定された伊達領国内の分国法である『塵芥集』には、道での拾い物は西山城下に届け出ることを定めている。 本格的な築城は伊達稙宗の代で、仙台藩が編纂した『伊達正統世辞考』には天文元年(1532年)に梁川城から亀岡八幡宮が西山に遷されたことが記されており、この頃に桑折西山城に本拠を移したとされる。また天文5年(1536年)に制定された伊達領国内の分国法である『塵芥集』には、道での拾い物は西山城下に届け出ることを定めている。 稙宗はこの時すでに陸奥国守護となっており、守護館としての桑折西山城は現在の本丸が当時の主要な空間であったとされ、本丸の南西部には門が立っており、大手道を進んだ正面に門が立つという領主の象徴性が示されていた。 天文11年(1542年)に始まり、伊達氏を二分した天文の乱の際にはこの城が攻防の舞台となり、天文17年(1548年)に和睦が成立すると桑折西山城は廃城となった。 しかし近年の発掘調査では、東の平場・本丸・二の丸・中館・西館・山田の平場からなる桑折西山城のなかで、中館と西館に大規模な枡形虎口が戦国時代末期に大改修されたものであることが指摘されており、豊臣秀吉との緊張関係が高まるなかで伊達政宗が改修した、あるいは関ヶ原の戦いの際に上杉景勝が改修した可能性が考えられている。 桑折西山城は奥州街道を抑える要衝であり、戊辰戦争では仙台藩が街道へ向けて砲台を設置したことでも知られる。
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