元寇防塁 のバックアップの現在との差分(No.10)
現実の城情報文永11年(1274年)、鎌倉幕府第8代執権・北条時宗は元のフビライ・ハーンによる侵攻を受け、これを退けた。世にいう文永の役である。その後、元の再襲を恐れ総延長20キロメートルにおよぶ石築地を築き、これが元寇防塁と呼ばれる。 文永の役では砂浜からの上陸を許してしまい多くの死傷者を出した教訓から、断続した石築地を築くことによって容易に上陸させない作戦に出たとされる。 続きをクリックで表示 元は文永5年(1268年)1月に南宋への攻撃開始と併せ、国書を携えた使者を大宰府へ派遣した。このときすでに高麗は征服され服従している。 元は文永5年(1268年)1月に南宋への攻撃開始と併せ、国書を携えた使者を大宰府へ派遣した。このときすでに高麗は征服され服従している。 北宋時代から交流のある南宋と日本の交易関係を元はよく思っていなかった。南宋を孤立化させて進攻をより強固なものにしようとした、と見るのが通常の見方である。元からの国書にはこうある。 「日本は開国以来、ときに中国と通交している」「今からは問を通じ好を結んで、互いに親睦しよう」と一見すると寄り添った言葉が並べられているが、「兵を用いるのは誰が好むであろう」という言葉で締め括られた。 幕府は従わなければ侵略するという元の腹の内を見た。北条時宗は国書を黙殺し、「蒙古人が凶心を挿んで本朝を窺うから用心せよ」と御家人に通達している。一説には元にしてはかなり温和な姿勢の国書であったと解釈される。 他方、朝廷は賊人が襲ってくると狼狽したといい、返事の草案には「日本は神の国なので屈服させようとすべきではない」とあり、国難に対して具体案のない模様だった。 なお文永の役の際に神風が吹いて元軍が撤退したという逸話があるが、『高麗史』によると撤退中に暴風雨に遭遇したのであり、神風は撤退理由ではない。
石築地の詳細(クリックで表示) 石築地の詳細どの担当国も統一して石積みはほぼ垂直とし、下部の石は大きめ、上部の石は小さめに配置してはいるが、九州の諸将に短期間で築かせたためか分担国によって建築方法が異なり線もジグザグとしている。 攻めてきたのはモンゴル人なのか(クリックで表示) 攻めてきたのはモンゴル人なのか「元寇はモンゴル帝国のモンゴル人によっておこなわれた侵略行為である」というのが一般に知られている認識である。陸続きであればまだしも、騎馬民族である元に造船技術はほとんどない。 コメント |
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