水城 のバックアップソース(No.4)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 水城(みずき)は[[大野城]]に先駆け築城された古代山城(朝鮮式山城)であり、『日本書紀』では「(前略)筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名を水城と日う」と天智天皇3年(664年)に記録されている。 近世までは御笠川を堰き止め水を貯める堤と認識されていたが、昭和に入り、竹内栄喜が大宰府防衛の施設であることを強く主張し、そのための外濠があると推測した。 加えて長沼賢海は東門地区の木樋((水を絶えず供給する導水管))の調査から貯水説を否定した。(出典:「水城の大樋の調査」『福岡縣史蹟名勝天然紀念物調査報告書』7 ) 上記二名の主張は昭和51年(1976年)の水城発掘調査によって証明されることとなる。たしかに竹内氏が主張するように水城には土塁際に外濠が巡らされていたのだ。 通常、水城ほどの大規模な防衛線を築こうとした場合、当時の技術では2年の歳月が必要とされていた。にも拘らず約1年で築城されているため、一説では日本の築城技術を誇示する目的もあったとされている。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 大宰府防衛の城は[[大野城]]をはじめいくつも存在するが、水城はその中でも群を抜く防衛能力を持っていた。 福岡平野が最も狭まる付近に、およそ1.2キロメートルにおよぶ長大な土塁が水城の規模である。軟弱な地盤であるがため、「敷粗朶工法(しきそだこうほう)」((枝葉を含ませ基礎の強度を高める工法。発掘調査によって土中に敷粗朶と呼ばれる大量の枝葉が確認できたため、この工法を用いたと考えられる))と呼ばれる工法で土塁の基礎強化を図った。 他の古代山城とは違い平野を遮る土塁と、その前面に水を蓄えた外濠を併せ持つ巨大な城壁であること、さらには導水施設を備え、堤体構造物という面をもった特異さも窺える稀有な城である。 水城はその堆い土塁と深い濠によって敵軍の進入を遮断することが目的であった。敵が進軍を試みる際、13メートルに及ぶ土塁よりも、まず深さ4メートル、奥行き60メートルの濠を越えなければならない。 濠の水は木樋をとおして常に水が蓄えられているが故に干上がることはなかった。 また、水城の周囲に「小水城」と呼ばれるいくつかの小さな土塁が存在し、西の守りを固めている。大土居小水城、天神山小水城、上大利小水城の三つがそれにあたり、規格は小さくとも築城方法は水城と差分ない。 一過性の防衛施設と捉えられる見方もあるが、築城以来まったく改築されなかったわけではなく、むしろ水城西門の発掘調査では大きく分けて3期の変遷が存在した。 1期では堀立柱式の門で壁面が石垣に覆われている。2期では8世紀前半の瓦葺きの礎石式、八脚門が想定され、律令制成立の整備と考えられた。 3期は8世紀後半から9世紀で、門を中心とし、石垣や土塁が改修され楼門風の建物が想定される。 }}} |BGCOLOR(#ddd):100|200|c |所在地|福岡県大野城市下大利3丁目7−25| |現存状態|土塁、門礎石、外濠ほか| |城郭構造|古代山城(朝鮮式山城)| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) |
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