舞鶴城 のバックアップソース(No.2)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) [[柳川城]]の別名。鶴が舞うような姿をしていることが舞鶴城の別名の由来とされる。 以下、柳川城の贈り物イベントの台詞を参照。 #br この城は筑後国に築かれた平城で九州屈指の堅城とされ、蒲池氏によって建てられた。 城主の一人である蒲池鑑盛は「義心、鉄のごとし」と呼ばれ、大友氏の家臣だったが、敵対していた龍造寺隆信が御家騒動で居城の[[村中城]]を追われた時、隆信を保護することもあったなど、義に厚い武将だった。 しかし鑑盛は天正6年(1578年)の耳川の戦いで戦死し、その後を継いだ鎮漣は勢力を回復した隆信によって滅ぼされてしまい、恩を仇で返されることになった。 こうして蒲池氏は滅ぼされたが、その時も隆信は柳川城を攻め落とすことはできず、その堅城ぶりが遺憾なく発揮された。 #br #style(class=submenuheader){{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }} #style(class=submenu){{ 豊臣秀吉が天下を統一すると、鑑盛と同じく大友氏の家臣であり、秀吉から「忠義も武勇も九州随」と称えられた立花宗茂が、秀吉麾下の直臣として取り立てられ柳川城主となった。 宗茂は関ヶ原の戦いの時、徳川家康に東軍に味方するよう説得されたが、「秀吉公の恩義に背くなら命を絶った方がまし」と誘いを拒絶し、豊臣方として参戦した。 宗茂は関ヶ原の戦いで敗れたため改易されて浪人となったが、その誠実で正直な人柄が家康に評価され、柳川城主に返り咲くことになる。 関ヶ原の戦いで改易された大名が旧領を回復したのは江戸時代を通じて宗茂のみであり、宗茂はまさしく「武士の中の武士」と称賛されるにふさわしい武将だったといえる。 #br 戦国時代に活躍した女性というと、徳川四天王である井伊直政を養育した井伊直虎、[[忍城]]で石田三成を撃退した成田氏長の娘・甲斐姫などが有名だが、宗茂の妻の誾千代もまた世にしら女性である。 誾千代は、名将と謳われた立花道雪の娘でわずか7歳で城主となり、父親譲りの勇敢な性格で関ヶ原の戦いでは鎧を着け薙刀を持って戦支度をし、加藤清正でさえ道を避けたという。 しかし、誾千代と宗茂の夫婦仲はあまりよくはなかったらしい。 #br &color(Silver){なお、柳川といえばドジョウを用いた料理である柳川鍋が有名だが、正確には江戸発祥の料理であって柳川の料理ではない。勘違いには注意しよう。}; }} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|福岡県柳川市本城町| |現存状態|天守台、石垣、堀| |廃城年|明治5年(1872年)| |城郭構造|平城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) |
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