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> 水沢城
水沢城
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 水沢城(みずさわじょう)は胆沢平野中央部のわずかな高台に築かれた平城である。 北を流れる北上川支流である乙女(御留)川を天然の堀とし、南岸のわずかながら高台になっている場所に築かれていた。 城域は本丸・二の丸・三の丸からなるが、元来は本丸・二の丸が城域であったと考えられており、三の丸は江戸時代になってから拡張されたものとされている。 岩手県地誌には天喜5年(1057年)に源頼義が築いたと記載されているが証拠はなく、正確な築城年代は不明である。 なお歴史的には胆沢平野など現在の岩手県南部は石巻など現在の宮城県東部を中心に勢力を築いた葛西氏の勢力圏であったとされ、水沢城も葛西氏家臣(これも諸説あり)の手によるものと現地では伝えられている。 一帯は北の和賀郡との境界でもあり、北への備えが重視される構造なのもこれが理由と考えられる。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 秀吉の小田原攻めに葛西氏が参上しなかったため奥州仕置によって大崎氏ならびに葛西氏が改易されると一帯は木村吉清に与えられ、水沢城にも家臣である松田源太郎左衛門が入ったと記録されている。 その後の大崎葛西一揆後(本貫地である伊達郡や置賜郡などと引き換えに)伊達政宗が旧大崎・葛西領を与えられることになり、当城は上杉景勝の手で改修が行われた上で伊達氏重臣である白石宗実が入城し、彼の死後は養子である白石宗直が城主となった。 北辺にあたる当城に重臣が配されたのは葛西氏時代もそうであったように、奥州仕置後の胆沢平野は北に位置する南部氏勢力圏との境界線に位置したためというのが大きいと考えられている。 関ヶ原の戦いに際して北上郡では奥州仕置で没落した旧領主の子である和賀忠親が旧臣とともに反乱(岩崎一揆)を起こしたが、関ヶ原の戦い自体が早々に決着してしまったため失敗に終わると白石宗直は忠親をかくまっている。 これについては和賀忠親など奥州仕置で改易され南部領となると、一帯の旧領主関係者を伊達氏がかくまっていた上に一帯で関ヶ原の戦い前後に関連する一帯で一揆の策動があったことがわかっている。 このことから岩崎一揆も伊達氏が裏で糸を引いていたと考えられており、実際伊達氏は幕府の圧力を受けることとなり和賀忠親は伊達氏により殺害(自害ともされるが正直疑わしい)され、白石宗直も[[寺池城]]に移され一旦は代官支配に変わったとされている。 (一説では、関ヶ原の戦いに際して出されていた本貫地返還等の約束が反故になったのはこれが原因であるとされている。) 一国一城令が出されると、名前は水沢要害と変わったものの北辺の要地という位置づけはかえって強まり柴田宗意、石母田宗頼と重臣が代々城主を務めるようになり、最終的に寛永6年(1629年)留守宗利が入り、その後(政宗の従兄弟にあたることから)伊達姓に復し水沢伊達氏として幕末まで当地を領した。 明治時代になると、二の丸の御殿に胆沢県庁が築かれ、その後縁故払い下げを契機に城域には役場などの公共機関の整備されるなどの活用が行われていたが、その後水沢町の財政難によって城域一帯が売却されたため完全に市街地に飲み込まれてしまった。 そのため、城跡の遺構はまったくといっていいほど残っておらず、三の丸跡地で奥州市役所がある他は完全に宅地化してしまっており、堀跡が道路に使われていたり払い下げによって引き取られた冠木門(黒門)が増長寺に移築されている程度である。 }}} |BGCOLOR(#ddd):100|200|c |所在地|岩手県奥州市水沢区表小路| |現存状態|まったくなし| |城郭構造|平城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 水沢城(みずさわじょう)は胆沢平野中央部のわずかな高台に築かれた平城である。 北を流れる北上川支流である乙女(御留)川を天然の堀とし、南岸のわずかながら高台になっている場所に築かれていた。 城域は本丸・二の丸・三の丸からなるが、元来は本丸・二の丸が城域であったと考えられており、三の丸は江戸時代になってから拡張されたものとされている。 岩手県地誌には天喜5年(1057年)に源頼義が築いたと記載されているが証拠はなく、正確な築城年代は不明である。 なお歴史的には胆沢平野など現在の岩手県南部は石巻など現在の宮城県東部を中心に勢力を築いた葛西氏の勢力圏であったとされ、水沢城も葛西氏家臣(これも諸説あり)の手によるものと現地では伝えられている。 一帯は北の和賀郡との境界でもあり、北への備えが重視される構造なのもこれが理由と考えられる。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 秀吉の小田原攻めに葛西氏が参上しなかったため奥州仕置によって大崎氏ならびに葛西氏が改易されると一帯は木村吉清に与えられ、水沢城にも家臣である松田源太郎左衛門が入ったと記録されている。 その後の大崎葛西一揆後(本貫地である伊達郡や置賜郡などと引き換えに)伊達政宗が旧大崎・葛西領を与えられることになり、当城は上杉景勝の手で改修が行われた上で伊達氏重臣である白石宗実が入城し、彼の死後は養子である白石宗直が城主となった。 北辺にあたる当城に重臣が配されたのは葛西氏時代もそうであったように、奥州仕置後の胆沢平野は北に位置する南部氏勢力圏との境界線に位置したためというのが大きいと考えられている。 関ヶ原の戦いに際して北上郡では奥州仕置で没落した旧領主の子である和賀忠親が旧臣とともに反乱(岩崎一揆)を起こしたが、関ヶ原の戦い自体が早々に決着してしまったため失敗に終わると白石宗直は忠親をかくまっている。 これについては和賀忠親など奥州仕置で改易され南部領となると、一帯の旧領主関係者を伊達氏がかくまっていた上に一帯で関ヶ原の戦い前後に関連する一帯で一揆の策動があったことがわかっている。 このことから岩崎一揆も伊達氏が裏で糸を引いていたと考えられており、実際伊達氏は幕府の圧力を受けることとなり和賀忠親は伊達氏により殺害(自害ともされるが正直疑わしい)され、白石宗直も[[寺池城]]に移され一旦は代官支配に変わったとされている。 (一説では、関ヶ原の戦いに際して出されていた本貫地返還等の約束が反故になったのはこれが原因であるとされている。) 一国一城令が出されると、名前は水沢要害と変わったものの北辺の要地という位置づけはかえって強まり柴田宗意、石母田宗頼と重臣が代々城主を務めるようになり、最終的に寛永6年(1629年)留守宗利が入り、その後(政宗の従兄弟にあたることから)伊達姓に復し水沢伊達氏として幕末まで当地を領した。 明治時代になると、二の丸の御殿に胆沢県庁が築かれ、その後縁故払い下げを契機に城域には役場などの公共機関の整備されるなどの活用が行われていたが、その後水沢町の財政難によって城域一帯が売却されたため完全に市街地に飲み込まれてしまった。 そのため、城跡の遺構はまったくといっていいほど残っておらず、三の丸跡地で奥州市役所がある他は完全に宅地化してしまっており、堀跡が道路に使われていたり払い下げによって引き取られた冠木門(黒門)が増長寺に移築されている程度である。 }}} |BGCOLOR(#ddd):100|200|c |所在地|岩手県奥州市水沢区表小路| |現存状態|まったくなし| |城郭構造|平城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)