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沼田城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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天文元年(1532年)に沼田顕泰によって利根川沿いの河岸段丘上に築かれた丘城で、当初は倉内城と呼ばれた。
上越国境の要衝だったため上杉氏・北条氏・武田氏による争奪戦の舞台となり、天正8年(1580年)に真田昌幸が奪取した。
本能寺の変後に起こった天正壬午の乱の結果、沼田城は真田氏の領有となったが北条氏との間で沼田領問題が発生した。
一時は北条氏が領有するものの、沼田城代猪俣邦憲が[[名胡桃城]]を奪取したことで、小田原征伐が引き起こされることとなる。
小田原征伐の後は真田信幸が城主となり、関ヶ原の戦い後も引き続き城主として五層の天守を築くなど整備を進めた。この天守は[[今治城]]より3年ほど早く築かれた、史上初の層塔型天守であった可能性がある。
武田氏・後北条氏・上杉氏による争奪戦が繰り広げられ、真田氏の城としても知られる北関東の要の城。
沼田の地は東へは下野北部・会津方面、西へは信濃上田や善光寺平方面、北へは越後方面、南へは厩橋方面へ向かう街道が通じる交通の要衝で、天文元年(1532年)に沼田顕泰によって利根川・薄根川・片品川に挟まれた河岸段丘上に築かれ、当初は倉内城と呼ばれた。
その立地から沼田城は武田氏・後北条氏・上杉氏による争奪戦の舞台となり、天正8年(1580年)に武田氏に仕える真田昌幸が後北条氏から奪取した。
昌幸は沼田領を管轄する北上野郡司としてこの地域を治めたが、武田氏が織田信長によって滅ぼされると上野は滝川一益に与えられ、沼田城には滝川益重が入った。

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本能寺の変後に起こった天正壬午の乱の結果、沼田城は再び真田氏の領有となったが後北条氏との間で沼田領問題が発生した。
一時は後北条氏が領有するものの、沼田城代猪俣邦憲が[[名胡桃城]]を奪取したことで、小田原征伐が引き起こされることとなる。
小田原征伐の後は真田信幸が城主となり、沼田城は織豊系城郭へと改修が進められた。慶長2年(1597年)に改修が終わった沼田城の姿は『正保城絵図』に描かれており、本丸を二の丸と三の丸が梯郭式に囲み、それぞれに外枡形虎口が設けられた。
天守は五層五階で、本丸の北東隅に置かれて二の丸の堀と連携し、本丸の前面にあたる東側に睨みを利かせた。発掘調査では本丸から[[指月伏見城]]と同様の金箔瓦が出土したが、金箔瓦は豊臣政権の城郭政策において政略上特別な地位にある城に用いられるものであり、このことから沼田城は他の金箔瓦の城と合わせて関東の徳川家康を抑えるための城であったことがわかる。
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信幸改め信之は関ヶ原の戦い後に昌幸の上田領を与えられ、沼田領と合わせた上田藩が成立した。信之は引き続き沼田城を本拠としたが慶長20年(1615年)に[[上田城]]に移り、沼田城には信之の長男信吉が入った。
元和8年(1622年)に信之は[[松代城]]に移って松代藩が成立し、沼田領はそのまま真田氏の所領として信吉が治めた。
明暦4年(1658年)には真田信直が起こしたお家騒動により沼田藩として独立したが、実高3万石(6万国)を14万千石と幕府に報告し領民に負担を強いた。この悪政により天和元年(1681年)に信直は改易され、翌年に沼田城も破却された。

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|所在地|群馬県沼田市西倉内町594|
|現存状態|石垣、堀など|
|城郭構造|梯郭式平山城|
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